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田中館愛橘博士が小惑星に命名されました

 今日は二戸市の田中館記念科学館を見学しました。同時に小惑星命名の記念行事があり、市長も参列してのTanakadate命名の報告を行い、その資料をお渡ししました。木村栄氏や寺田寅彦の先輩でもあったAikitu Tanakadateの星が誕生したわけです。人口3万人ほどの北の小さな町に聳える近代的な施設はまさに文化のシンボルです。寺田寅彦のような偉人を出しながら、科学者としての彼の業績を顕彰するような科学施設のひとつも無い土佐を思い、一抹の寂しさを禁じえませんでした。
 今日は地元のイーハトーブ宇宙実践センターの主催による懇親会が和やかに開かれました。国立天文台の先生も数名見え、中には神戸から駆けつけた山田義弘さんや、もと五藤光学の石井さんの顔もあり賑やかでした。地元の戸村茂樹さんが緯度観測所の元職員だった山崎正光さんのことを詳しく紹介し、今は入手不可能となった山崎さんの珍しい本を出し注目させられました。昭和の初めの頃の出版で、人気が高く10版を重ねたとあります。題は英文で書かれた「望遠鏡の作り方」でカラーの美しい表紙です。内容は反射鏡の研磨法をかなり詳しく書いてあり、同時に出品された中村要さんの「天体写真撮影法」と良い対照でした。
 地元の人によると山崎さんが緯度観測に従事した記録が無いということですが、あとで戸村さんが送ってくださった資料によると、山崎さんは二人一組による交代制で天文台の仕事に忙しかったことを述べておられます。そして水沢はお天気が悪くろくに彗星の捜索ができなかったことも書いています。しかし突如として起こった1928年10月27日の彗星発見。そのいきさつについてもかなり詳しく語っています。山崎さんはアメリカで1910年のハレー彗星を見るために磨いた8インチ(20cm)の反射望遠鏡で、その頃からすでに彗星の捜索をやっていたそうです。場所は留学先のリク天文台だったそうです。そしてその鏡は日本に持ち帰って独特のスタイルのコメットシーカーを作ったわけですが、山崎さん自身これを日本での第1号の鏡と言っていますので、研磨は確かに中村要氏より早かったようです。
 この鏡は今どこにあるのか?一説によると愛知県の親友だった山田達雄氏が買い取り、星野次郎氏によって修理研磨が行われたことになっていますが、詳細は不明です。山崎氏は捜索のとき、7インチに絞って使用していたといいますから、確かに鏡面の精度は良くなかったようです。1955年頃私が実際に覗いたところ、30倍のラムスデン式のアイピースは視野が狭く(1度10分)周辺のかなり崩れる像でした。1年くらいの捜索で彗星に行き当たったそうですが、私には奇跡としか思えませんでした。
 いずれにしても、それまで日本人ではだれもやらなかったことをやったことは偉大で、まさに天文人としての先覚者だったと思います。
 山崎氏のエピソードは尽きないですが、いずれまた語りましょう。

左 中村要氏の「天体写真術」    
右 山崎正光氏の「望遠鏡の作り方」


科学画報昭和4年3月号
に載った山崎正光氏
の発見記(戸村茂樹氏提供)

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2006年03月05日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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