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土佐には立派な暦学者がいました。

 いま高知県文学館で「天文と暦」という催しをやっていますので見てきました。江戸時代の天体望遠鏡と渾天儀(こんてんぎ)、それに当時の暦に関する日記のような資料が展示しされていました。
 説明には、天体望遠鏡は作者不明とありましたが、これは今から200年ほど前のドイツのシュナイダー社の作品で同時に有名なフランホワーの刻印もあり、両者の合作とも考えられます。スタイルは地上用の様にも見えますが、アメリカサイズのアイピースやサングラスも付いている事は立派な天体用です。恐らく山内容堂(やまうち ようどう)公の時代に、先見の明を誇った殿様や侍が使ったものでしょう。
 この望遠鏡で実際に星を見たらどのように見えるでしょうか? 誰しも大変な興味を抱くことでしょう。ところが実際に覗いた男がいたのです!そして事もあろうに、その望遠鏡を密かにお蔵から持ち出して、あの大ハレー彗星を観測したのです。それは一体誰なのか、そして1986年のハレーはどのようなイメージでこの山内家秘蔵のレンズに写ったのか。後にも先にもこれでハレー彗星を見るなんて皆無のことでしょう。その話はまたいつかこのページでお話しましょう。
 さて渾天儀に移りましょう。これは1760年頃の土佐の暦学者「川谷薊山(かわたに けいざん)」の作品です。真鍮を使って実に美しく見事にできています。当時はこうした機械で天測が行なわれていたのでしょう。そしてあの日食予報の元となったのかもしれません。即ち宝暦12年、薊山はその年幕府が発表した暦に9月1日の日食がもれている、と主張したのです。しかし幕府の天文方は反論し話題となりました。
 薊山の計算は正しかったのです。かれは宝暦12年9月1日の正午、高知市の比島山で実際に日食の起こるのを確認し、会心の笑みを浮かべたのです。
 それから150年余りたった1945年8月15日(終戦の日)私は比島山に立っていました。山の頂上に無人の神社があって沢山の絵馬が掛けられていました。その中にどうも普通の風景とは異なる模様の分からない絵が掛けられていました。今思うとどうも日食を描いたものではなかったか、と思ったりするのですが、わかりません。裏の暗い洞穴の入り口に、古い石碑が立っていたのですが、もしかすると日食観測地を記念した碑であったかもしれません。比島山はその後山崩れの災害を起こしてすべて姿を消しました。
 土佐には薊山の先輩に谷秦山のような天文暦学者も輩出しており、日本でも早くから天文学が発展したのですがそれは昔のこと。今では科学に関してはもっとも遅れたお国となってしまいました。

川谷薊山の作った渾天儀(山内家所蔵)


口径80mm屈折望遠鏡(山内家所蔵)

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2005年11月18日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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