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ALMAに関連する天文の講演会が催されました。

 今日は予定どおり国立天文台から3人の講師が来られ、高知市大津の高知県教育センターでALMAに関連する天文の講演会が催されました。高知市を中心に非常に熱心な天文ファンが来られて、会は成功に終わりました。ただ高校生を中心とする学生が少なかったことは意外で、学生たちの科学離れの象徴か、今後一考を要する問題だと思いました。
 いつもこうした講演会が行われると意外な人に会うものです。20年ほど前に四日市市で講演会をもったとき30歳くらいのご婦人が後で小学生の子供を連れて控え室にやってきて「先生、お久し振りです。昔ギターを習っていたMです。今日は図らずもお目にかかれて嬉しく存知ます。」と挨拶されました。思い出しました。1966年、あのイケヤ・セキ彗星を発見したあと、”少年サンデー”が取材に来てノンフィクション作家の佐伯誠一氏等が取材したのですが、その時ギターレッスンをやっている風景の写真のモデルになってくれたのが当時女子大生の彼女でした。「先生は何にも言われなかったのですが、あの時私は密かにお慕い申し上げていました、、、、」と言う大胆な言葉はやはり人の親となった落ち着きでしょうか。芸西村出身という彼女はいつの日にか子供と天文台を見学したいと言っていました。
 そして今回の講演会も例外ではありませんでした。私の話が終ったとき、前の方に座っていた一人の紳士がつかつかと歩み出て、「関さん、片岡です。実に53年ぶりです」とおっしゃるのです。いただいた名刺の肩書きを見ると”越知町教育長”と書いてあります。同時に同町の博物館の館長も勤めておられます。思い出は一瞬1952年に遡りました。わたしがOAAに入会して観測を始めたばかりの頃、越知町の小学生で、精巧な天球儀を作り何かの催しで入選して高知新聞に大きく取り上げられたことがあります。その記事を見た私は感動のあまり彼に賞賛と激励の手紙を差し上げたのです。それから4年、私がクロムメリン彗星を発見して報道された時、それを見て中学生になった彼から逆に祝いの手紙をいただいたのでした。しかしその後、一回も会うチャンスが無く、遂に今回がはじめての面会となったのでした。彼は天文の道に進むことは無かったのですが、私からの激励の一本の手紙がきっと彼のその後に良い影響を与えたのではないかと思います。かって私も本田大先生から激励の手紙をいただいたことがあります。
 いまは若い人たちで携帯電話を使った便利なやり取りが盛んになって、手紙の文面に感動したり、或いは涙する事も無くなったのですが、私は今更のように一本の手紙の重さを痛感するのです。私の人生を変えたのも先輩からの一本の手紙でした。

片岡重敦(かたおか しげあつ)氏(左)とともに

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2005年11月13日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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