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 高知ではまだ暑い日

 高知ではまだ暑い日が続いています。太陽がやや南になりましたので、昨日は2階の書斎では28℃まで気温が上がり依然として冷房をやっていました。
 今日10月21日は40年前の今日「イケヤ・セキ彗星」が近日点を通過した日です。あの時も今日のような日本晴れで青空が光るような見事な晴天が続きました。

池谷・関彗星太陽大接近の日
1965年10月21日

彗星が太陽面に突入したのはこの日の正午過ぎでしたが、朝早くから多くのマスコミで私の家の庭や屋根の上はいっぱいになりました。恐らく浜松の池谷さんの所も同じような状態ではなかったかと思います。

当日、観測台の下に集まった人々
中央に池幸一氏。他はマスコミ関係。
1965年10月21日

 然し灼熱の太陽面にくっついた彗星をテレスコープで見ると言うのは大変危険なことで、そのため我々は観測が思うに任せず白昼の観測に失敗したわけです。然し実際にはその7時間ほど前に我々のメンバーの一人である土佐市の池 幸一氏が健在な同彗星の観測に山で成功していたのでした。この日の午前中には東京の上野や倉敷、そして一般の人で平地から太陽に接近中の「イケヤ・セキ彗星」の姿を確認した人がいました。それらは皆、肉眼で太陽のそばに見た訳で、上野のMさんはテレスコープ用のサングラスで太陽を覆いながらその影に観測した、と言っていました。このとき倉敷のHさんは写真撮影に成功し、彗星の明るさを”満月の数十倍する明るさだった”と言っておられました。勿論この位置に金星や月をもって来ても見えません。このときの池谷、関彗星はいったいマイナス何等星だったのだろう?9月の発見当初、スミソニアンが「今世紀最大の明るさ」と予言したことが当たっていた、と思いました。
 それにしてもフランスのリゴレ博士が発見の第一報の一回の観測を見ただけで、これが”クロイツ属”の彗星であって近日点を10月21日に通過することをを予言したのはお見事でした。この頃軌道計算はカニンガム氏が主にやっておりアメリカのM氏や日本のN氏の名はまだ出ていませんでした。観測はフラグスタフのローマー女史の全盛の時代でした。
 ここまで日記を書いてふと窓から北の空をみると九天に何か白いものが光っているのに気づきました。思えば40年前のあの日も青空に白い雪のような小さな物体が盛んに舞っていた事を思い出しました。そしてどこかの小学校で遅秋の運動会でもやっているのか盛んに行進曲らしい音楽が流れてきます。ホセ・カレヨさんの作曲した「コメット イケヤ・セキ」と言う音楽をふと連想して心の中で唄っていました。 「星は去り 時は過ぎ行く 人は去る、、」。

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「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)

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2005年10月21日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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