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池谷・関彗星の曲

 今年の10月21日も朝から見事な快晴に恵まれました。
 今から、ちょうど43年前の今日、「池谷・関彗星」が太陽のコロナの中に突入したのです。あの時も今日のような、雲一点も見当たらない快晴でした。空には何か白い粉のようなものが、盛んに浮遊していました。そして、今日と違っていたのは、朝から私の自宅の観測所にたくさんのマスコミが押し寄せてごった返していたことでした。
 摂氏100万度もあろうと言う太陽コロナの中を彗星が通過する。誰しも今日が、池谷・関彗星の終焉の日と見込んで、半ば興味と不安を持って九天を仰いでいたのです。一足早いハワイからは彗星がバラバラになって、砕け散るのを目撃したと言うし、本家の日本でも、乗鞍岳のコロナ観測所では、早朝からコロナグラフで、太陽接近中の同彗星を捉えていたものの、午後1時15分、遂に彗星はコロナの中で、蒸発消滅した、との観測発表が行われ、私たちに大いなるショックを与えたのです。そのとき、彗星の光度は満月よりも明るいマイナス12等と発表されましたが、それは、最後を見届けた倉敷天文台の本田実氏の観測でした。
 それから一週間程たって、池谷・関彗星は、明け方の空に意外な姿となって現れてくるのですが、実はその健在な姿をあたかも予言するかのように、彗星の姿を音楽で表現した人がいました。それは、日本からはるかに遠く離れた南半球の人で、彼は太陽に突入していく彗星の姿を見て、即興的に「イケヤ・セキ」と言う曲を作曲したのです。この彗星は南半球で特によく見えて、途上国では「世界のおわりか!?」と騒いだようです。そして、ネパールのカトマンズでは時の国王も参列して、真面目な”厄除け祭”を、行ったことがNHK1のテレビで放映されました。キューバのホセ・カレーヨさんも、おそらくそのような気持ちで、半ば慄きながら、白昼の空に舞う彗星の姿を曲に残したに違いありません。
「イケヤ・セキ」の曲は、間もなく私の元に送られてきましたが、これは完全なプロの手になる作品で、おたまじゃくしの配列は力強く華麗に宇宙を舞う彗星の姿を見事に捉えていました。カレヨさんも私と同じように、彗星の健在を信じていたのでしょうか?
 時は移って、あの日から40年、「イケヤ・セキ」の曲は実際に演奏されることはありませんでした。ホセ・M・カレヨさんとは一体どのような方であろうか、そしてどのような思いをこめて、この曲を作曲したのであろうか。ややもすると、この事件は謎のまま永遠に消え去ろうとしていたのです。
 そのようなときに一つの朗報がもたらされました。あるテレビ局の番組で、タレントの”ポストマン”が、はるばるとキューバーまで、ホセ・カレヨ氏をたずねていくことになったのです。果たして40年の歳月を経て今なお作曲家として現地で健在なのか、ポストマンは、当時のイケヤ・セキ彗星の写真と、私のメッセージを提げて旅立ったのです。メッセージの中には、「イケヤ・セキ」作曲者として、彼の名を星に命名したこともしたためてあります。「どうか私のメセージが無事彼の元に届きますように、、」と、祈るような気持ちです。
 彗星が音楽になったことは、おそらく前代未聞のことでしょう。願わくばホセ・カレヨさんの楽団によってこの曲が演奏され、それを聞く機会が与えられますように、、、、。私は南国キューバの美しい星空の下で、その曲が演奏されている光景を夢に見ています。
 ”走れポストマン”彼はいま何処にあるのだろうか。

ポストマンの中村氏(向かって右)と共に

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2008年10月21日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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