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 月が明るくなって観

 月が明るくなって観測は暫くお休みです。
 滋賀県野洲市(旧・中主町)の苗村敬夫(なむらたかお)さんからお便りがあり、滋賀県の新聞に紹介された苗村さんの鏡研磨に関する新聞が送られてきました。現代の反射鏡研磨の名工として紹介されたもので、苗村さんのことは度々新聞他で紹介されています。文字どおり日本の第一人者としての貫禄がうかがえます。
 私の彗星発見は苗村さんの製作したレンズから始まりました。口径88ミリF7の対物レンズは見事な星像で、微弱な光の彗星を発見するにはいかにピントの良いレンズが必要なのかを痛感したのでした。1961年の「コメットSeki」から1965年の「イケヤ・セキ」までこのレンズを使用しましたが、いずれも極度にピントが良くないと見逃していただろう彗星ばかりでした。このレンズが苗村さんの第一号の対物レンズだったのですから驚きです。徳島県那賀川町の1メートル鏡も苗村さんの製作ですが、天文台開所記念観測会の時、私の88ミリレンズも出向いてドームの中で共に星を見たのもなつかしく、この日はまさに「苗村」だらけとなりました。
 苗村さんは新聞の記事によると、いま国立天文台の20cmを磨いているそうでプロからの信頼も厚いことを伺わせています。
 写真はオーストラリアの古豹ブラッドフィールドさんが芸西に見学にやってきて「イケヤ・セキ彗星」発見の88ミリコメットシーカーを見ている所で、鏡筒には発見した3つの彗星の年月日を記載しています。
 日本での反射鏡製作の起こりは19世紀始め頃の中村要(なかむらかなめ)氏でしょうか。日本ではこの中村-木辺-苗村という流れがしっかりした太い線となって今日に移ってきたものと思います。ただ京都の中村氏とほぼ同じころアメリカに留学していた山崎正光(やまさきまさみつ)氏がやはり反射鏡の製作法を習得し、1920年ごろ日本に帰って「反射望遠鏡の製造法」と言う本を出版しています。彼は20cmの反射式コメットシーカーを自作して1928年10月に「クロムメリン彗星」を発見したのですが、彼は弟子を取らなかったので、その研磨法は伝わりませんでした。ところが興味深く思うのは、山崎氏のコメットシーカーについていた20cmF7の鏡が、後名古屋の山田達雄氏を経てこれも鏡研磨の名手九州の星野次郎氏に渡ったのです。目的は再研磨だったのですが、パラボラ鏡の精度は球面程度だったという話が残っています。私は星野さんの鏡は持っていませんが、一度手に入れたいと思ったことがあります。然し星野さんは数年前に逝去されました。何時かの日、私の物干し天文台にあがってテレスコープを観ていた星野さんのことが偲ばれます。

イケヤ・セキ彗星を発見したコメットシーカーを
手にするブラッドフィールド氏
1991年3月

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2005年03月25日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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