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コメットシーカーの怪(3)

 1950年前後、本田さんの活躍によって日本の天文界は一つの彗星ブームとなりました。その頃本田さんの他に東京の角田喜久男(かくだきくお)氏、京都の原田参太郎(はらださんたろう)氏に松井宗一(まついそういち)氏、山口の浅野英之助(あさのえいのすけ)氏、香川県の川人武正(かわんどぶしょう)氏らが、それぞれ意匠を凝らしたコメットシーカーを自作して彗星を捜索しました。この少し後で花山天文台の三谷哲康(みたにてつやす)氏も加わって一大捜索合戦を展開する事になるのです。しかし、この時代実際に成功したのは本田さん一人で、このメンバーで発見した人はおりません。”彗星発見は本田さんに限る”という一つの神話が生まれたのです。機器は10cm~15cmの反射が多く、中には12cmF5の屈折が一台ありました。関西光学が15cmの反射式コメットシーカーを売りだしたのも、この頃だったと思います。実はもう一人Seki と言う新前の少年(?)が土佐の高知の片隅で10cmの反射鏡をひっさげて盛んに観測をやっていましたが、これはこのメンバーに入るほどの男ではありません。もう10年待ってください。
 さて今日の”コメットシーカーの怪”とは京都の原田参太郎氏の事です。事件は本田さんが ”Honda-Mrkos-Pajdusakova彗星”を発見した1948年12月4日の早朝のことです。
 原田さんは15cm反射鏡を使って夜明け前30分、東南のヒドラ座(うみへび座)付近を上から下に向かって水平捜索をやっていました。本人の言う事では、明らかに本田さんの視野より30分先行していたそうです。すぐ目前にあの新彗星が、発見を待っていたはずです。しかし彼の視野に飛び込んで来たのは、彗星の光芒ではなく、近所で起こった火事の赤い炎だったのです。当然彼は火を消しに走りました。そうこうするうちに夜が明け、その頃広島県の瀬戸村で本田さんが発見の凱歌を挙げていたのです。
 彗星の発見は努力が第一ですが、確かに運不運に左右されやすいものですね。
 原田さんは、その後どうされたでしょうか?ここからが大切なことです。
 さて次回は同じ火事でも私が関与した、とんでもない事件・・・そしてコメットシーカーの怪・怪・怪です。
 (つづく)

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2004年07月10日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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