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思い出の彗星

ムルコス・本田彗星
C/1953 G1 (Mrkos-Honda)

 ムルコス・本田彗星(C/1953 G1)が発見されたのは、今から遠く1953年4月12日(世界時)のことであった。終戦後間もない1947年から始まって翌1948年にかけて3個の彗星を連続して発見した本田実さんにとって、5年の空白を経ての新発見であった。当時は国際天文電報によってコペンハーゲンから、日本にも打電されていたが、その電報を受け取ってからの発見報告が認められたもので、今なら大変に珍しい例となると思う。つまり本田さんはムルコス氏の発見から19時間遅れて発見し、翌日の確認観測を待っている状態の時に、外国の発見が通達されたのである。これは過去に立派な実績があってのことで、まったくの素人なら認められなかったと思う。なぜなら新天体の確りした位置観測が無かったのである。
 本田さんからの連絡で、すぐ観測した私の記憶ではモーローとした9等星で、4'ほどのコマがあった。位置は夜明け前に天頂近くに登ってくるペガサス座の中であった。
 当時、新彗星の眼視捜索に徹していたチェコ(現・スロバキア)のスカルナテ・プレソ天文台は当のムルコスをはじめ数人の鋭眼の捜索者を擁して、海抜1400mの理想的な場所で、新彗星を探しまくった。台長のベクバル博士自らも発見するほどの熱の入れようで、1947年ごろから、約10年間この天文台で発見した彗星の数は10個以上に上る。有名な「タットル・ジャコビニー・クレサック彗星」もこの天文台でクレサック博士がコメットシーカーで偶然発見したもので、位置予報は出ていなかった。碩学で新彗星を捜索して成功した人に、アメリカのエバハート氏も居る。今でこそCCDによる楽な掃天が行われているが、昔はすべて眼視による大変な作業であった。
 この一連の捜索に使われたコメット・シーカーはソメト製の口径10cm,25xの双眼鏡であったと言われている。この頃、ムルコス氏は標高1400mの天文台から、更に1000mも高い、気象観測所に上がって観測したと言う。星の美しさと、寒さは一体どのようなものであったろう、と思う。ここ高知市の観測所でも、冬の早暁はマイナス8度に達したこともあり、機械式の腕時計も止まった。そして人間の思考力も減退した。
 ああ1950年代の高知市の時代は、とにかく寒かったことと星の無上に美くしかったことのみが脳裏に残る。そして何の収穫もなかった虚しい10年間のことが。


ムルコス・本田彗星
C/1953 G1 (Mrkos-Honda)

1953年4月17日 03時30分(J.S.T)
口径8cm エルマジーアストロカメラ
撮影:本田実



Copyright (C) 2009 Tsutomu Seki. (関勉)