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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第5幕 竜馬とハレー彗星

 

 幕末の風雲児、坂本竜馬が生まれたのは天保6年(1835年)11月15日のことで、場所は高知市上町一丁目(私の家から300米ほどの所)である。今はその生家はなく、電車通りの僅かな空き地に”竜馬誕生地”の小さな碑が建っているだけで、時代を動かした大人物の出生地としては余りに淋しい光景である。

 竜馬の母『幸』は、竜馬懐妊中に雲竜奔馬が胎内に飛び込んできた夢を見た故、『竜馬』と名づけたということになっている。ところが竜馬誕生の頃の歴史を調べている中、ふと面白い事実に気づいた。何と竜馬が上町の家で産声を上げた頃、その頭上に大ハレー彗星が横たわっていたのである。つまり幸の見た夢の原因はハレー彗星にあったと考えるのである。

 この年、1835年のハレー彗星は極めて好条件に恵まれ、地球に接近してきた。20°に余る尾を見せながら、その年の11月16日(竜馬誕生の翌日)近日点を通ったのである。

 1910年(明治43年)のハレー彗星も凄かった。5月には地球にぶつかるかも知れないというので、世は混乱し多くの迷信がはびこった。ましてそれより一時代昔の天保年間に、ただならぬ巨大なホウキ星の接近を見て、世間がどんなにか騒ぎ、そして恐れおののいたか想像に難くない。この時代は一部でホウキ星を天体というより、宇宙を舞う怪獣の姿に見たのではないかと思う。夜ごと頭上に横たわるホウキ星の姿に、幸は恐ろしい竜の姿を夢に見たのではないだろうか。やがて生まれてきたわが子に(世界を雲竜奔馬の如く駆めぐって活躍せよ)との願いを込めて”竜馬”と名づけたのではないかと思う。気丈夫な土佐の女らしい行いである。

 ”竜馬とホウキ星”そこには風来坊たちの運命的な出会いがあったのである。
 しかしハレー彗星が近日点を通ったころ生まれた竜馬は、勿論ハレー彗星を見ていない。1931年(昭和6年)桂浜に竜馬の銅像が建てられてから、おおよそ半世紀後の1986年に、竜馬は初めてハレー彗星と対面することになる。そしてここでも多くの人々の眼をハレー彗星に導くという、先進的な行動をとることになるのである。

 1986年のハレー彗星の芸西天文台での観測風景については、すでに前号で述べた通りである。天文台の60cm反射鏡の生みの親である五藤斎三氏は、ハレー彗星を2回見るという志を、ついに叶うことなく逝去されたことについても語った。しかし、そこには伏兵がいて事件は意外なる顛末を迎えることになる。その後日譚についても語らなくてはならないのだが、それは少し待っていただくこととして、竜馬とハレー彗星のエピソードについて、もう少し語ってみたいのである。

 昨年のヘール・ボップ彗星や1986年の百武彗星へのマスコミや一般の関心は高かった。しかしハレー彗星の場合は周期彗星であって、その何十年も前から出現が予測されていただけに、その熱は物凄かったと思う。1984年9月、芸西で日本初観測の狼煙を上げると、ハレー彗星は高知県で見ようと、多くの観光客が押しかけて来るようになった。天文台にも一晩に二千人が集うという空前絶後の現象が起こった。私は天文台に入りきれなかった人々に国民宿舎に泊って、朝方のハレー彗星を見るようにすすめた。なぜなら、その頃南に低く行動していたハレー彗星を観測するために高知県の国民宿舎は、ことごとく南の海の良く見える高台に位置していたからである。それでも東も西も分からず不安で仕様がないという多くの人々の問いに対して私はこう答えた。
 「ハレー彗星を確実にごらんになりたいと思う方は天下の名勝桂浜に行って下さい。そこは時代の先駆者、坂本竜馬なる者がいて、皆さんをハレー彗星へと案内してくれます」と。
 即ち竜馬の銅像の見つめている海の彼方を見る。するとハレーは確実に竜馬の視線の方角からやって来るというのである。

 桂浜の竜馬の銅像は、はるか東南の海を睨んでいた。(一体坂本竜馬は何処を見ているのか?そして懐に入れた右手は何を出そうとしているのだろう?)と度々の論議を呼んだ。一説には、かつて薩長連合、そして大政奉還への一連の仕事の舞台となった京の方を見ているというし、また一方では、いやいや竜馬はもっと遠くを見ている。国内では尊王攘夷や開港論を戦わせて内乱を繰り返しているとき、竜馬の目はすでに海外にあったのだという。それはともあれ1986年3月上旬に近日点を通ったハレー彗星は悠々の飛行を続け、下旬には竜馬の見つめる海の上に見事な姿を現したのである。常に時代の先端を走った竜馬の眼は、ここでも誰より早くハレー彗星を捕らえていたのである。そして懐に入れた竜馬の手、そこには懐剣でも短筒でもない、近代的な遠メガネが隠されていたはずである。

 大政奉還の立役者とされる竜馬や、それを幕府に進言したと伝えられる土佐藩最後の殿様、山内容堂公は外国は勿論、宇宙に深い関心を持っていた。のち山内家の倉で発見された立派な天体望遠鏡(ドイツのシュナイダー社とフラウンホハー社の合作)や、天球儀、星座帖、そしてヨーロッパやアメリカの近代的な風景の見られる立体式の”のぞき箱”等はそれを雄弁に物語っているのである。
 文久2年(1862年)竜馬は勝海舟との運命的な出逢いによって、世界の中での閉鎖的な日本を知ることになる。竜馬の思想は勝の教えによって、海外に拡がり発展していった。そして山内家の所蔵する天文器具によって、更に宇宙にまでも拡がって行ったと考えるのは飛躍が過ぎるのであろうか。今はひっそりとして山内神社の宝物館に眠る一台の天体望遠鏡が、近代日本の夜明けの礎になったような気がしてならない。


(さて次回は、この山内家所蔵の望遠鏡を持ち出しての天体観測である)。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)