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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第51幕 津波救助艇「荒天号」の行方(2)

 

 まことに奇想天外な船を造ったものである。
 1946年の南海大震災の残した教訓から、どんな嵐の海でも沈まない、安全な海の底を進行して遭難者を救助するという発想は、すでにこのころ発明家SS氏によって考案され、試作されていた。
 この潜水艇は1985年頃、日本列島一周の最後の航海を行って引退し、船長も1990年に死去して、その任務は終了した。そして船体は残され、これからの若者に夢を与えるものとして、ある篤志家の出資で、高知市の桂浜の「竜馬(りょうま)記念館」の片隅に永久に保管されることになっていたのである。
  実はこの数年前にも、船に関するもう1つの出来事があった。大阪の四ツ橋にあった大阪市立電気科学館のプラネタリュウムの名解説者だった神田壱雄(かずお)氏が、自作のヨットで夫人と共に日本列島一周の旅に出て、鹿児島から高知港に入港して私を訪ねてくれた。荒天号(こうてんごう)もその後、日本一周の旅に出たのであるが、この2人は実はプラネタリュウムで共通し既知の仲であった。
  東洋で2番目のプラネタリュウムを製作公開したSS氏は、電気科学館の指導を受けていたのであった。神田さんも時々高知市で公開中のプラネタリュウムの監修にやってきていた。荒天号はこの2人の話し合いのもとに生まれたのではないかと思うが詳しいことは不明である。
  2011年3月に東日本で大地震による災害が起こって間もなくの事だった。そのまっただ中に私の友人がいて、時々文通していたのであるが、ある日奇妙な便りがあった。それは津波が引いた後の気仙沼市の海岸に「荒天号」と書いた奇妙な船(?)が係留されていたと言うのある。またある漁夫は、震災後の海を航行中に、湾内を徘徊するように航海している風変わりな船(潜水艇)を見たと言う。


係留中の「荒天号」

 『そんなはずはない。荒天号は今も桂浜の龍馬記念館の中に眠っているはずだ。』と思って、ある日見に行ってみた。ところが驚いたことに荒天号が安置されていたはずの記念館の庭はもぬけのカラ。荒天号のいきさつを書いた看板までもなくなっているのある。『いったい荒天号はどこへ行ったのだろう?』。まさか持ち主だったSS氏の亡霊が持っていったのではありますまい。
  荒天号は消えた。しかし発明家SS氏の情熱を思うとき、救助艇は今もどこかの洋上にあって海難救助のために働いているような気がしてならない。


「竜馬記念館」の広場に展示されていた「荒天号」




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