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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第4幕 ハレー彗星と夢

 

 戦後間もない頃のラジオドラマに、こんなのがあった。
 山深い天文台に一人の盗賊が逃げ込んできた。その男は人生の裏街道ばかり渡り歩き、常に悪行ばかり重ねてきた。そして社会を逃れて、たまたま逃げ込んだ天文台の中で、台員たちの親切に心を動かされ、懺悔と改心の日々を送るようになる。そして天文台の作業(遠くの銀河を撮影して研究する)に、今まで経験したことのない世界を発見し、宇宙に惹かれるようになる。いつの間にか過去を忘れ天文学者としての道を歩むようになるというストーリーである。私は、この放送劇を聞いたとき、スケールこそ違うが、幼少の頃、お化け屋敷の中を逃げ回って飛び込んだ天文台で、五藤氏に太陽の黒点を見せてもらって、天文に関心を持つようになった自分のことを思い出して、人生での出逢いの妙を改めて感じたのである。

 余談になるが、終戦直後という時代には、実に良い放送劇が放送された。無論民間放送局の無い時代で、四国地方で聞けるのはNHKの第1放送のみで、今の電波の氾濫した時代と違って、実に高い視聴率を誇っていたのである。1946年の秋に放送された『靴音』という番組は、当時戦場に行った息子が、復員兵として帰ってくる日を待つ母親の切ない心を描いたもので、敗戦後の静寂に打ち沈んだ町中を、特徴のある高い足音が、時々刻々玄関前に近付いてくる様子は、正に鬼気迫る瞬間というか、放送劇としての最高の場面だった。下らないテレビドラマが流行するなかで、良いものは永遠に人の心に残るのである。
 さて、同じ靴音でもこちらは天文台の”靴音”の主であるが、五藤氏と博覧会の頃から40年近くも会う機会がなかった。しかし芸西村に念願の天文台が完成してからは密に文通を交わすようになった。

 天文台の目的として、先に述べた如く第一に一般への天文台の普及。第二に学術的な使用と貢献があげられたのだが、実は五藤氏にとって第三の目的があったのである。それは若い頃見たハレー彗星を2度見ること。そのために芸西村に新設された天文台が有効に働くであろうと考えていたのである。それは氏の永い天文生活での最後の夢でもあった。

 芸西天文台は1981年4月に当の五藤氏夫妻や国立天文台の北村正利氏、九州の坂上務氏。それに倉敷の本田実氏らも参加していただいて開所式を行った。しかし天文台は実際にはその少し前から活動を開始していた。同年1月に、まだ工事中で電気が入っておらず、ドームも回らない天文台の中に、夜中に忍び込んでロングモア周期彗星を検出したことなんか、懐かしい思い出である。当時の感材はコダックの103aやフジのFLO-Uのガラス乾板を使っていた。対日照の明るさで、プレートもかぶるのではないかと心配されるほどの、理想的な条件の下にパトロールが始まった。ハレー彗星の回帰に備えての準備も怠らなかったが、実はこの頃、私の胸中に1つの案があった。それは天文台で最初に発見した小惑星に、五藤氏の名前を命名しようというものであった。捜索の甲斐あって1981年2月9日に獅子座付近で発見した1981CAという星に、私は文句なしに"Goto"と命名することを提案したのである。しかし実際には4回の対衝期での発見が必要とされるので、スミソニアンの承認はハレー彗星の近づく1984年であった。
 五藤氏はOAA創立当初からの古い会員で、山本一清先生と親交があったと聞くが、現在芸西天文台で発見、観測した小惑星の数は約2000個、その中の110個が確定し、命名されつつある。OAA関係の先輩の一連の命名が佐藤健氏がや長谷川一郎氏の協力を得て進行中で、これが終われば芸西天文台での小惑星関係の仕事が一段落ということになる。

 さて今世紀2度目のハレー彗星の観測は、1984年9月に成功した。その夜、たまたま東京朝日の記者に同行して見学に来ていた女流作家が、日本での初の観測を記念して

    <会い得たる 愛しき星よ 虫すだく>

との歌を詠んでくれたが、実際天文台周辺の草むらでは気の早い秋の虫の大合奏。今でも秋が訪れて虫の音を聞くと、ハレー彗星を追っかけたあの頃を思い起こす。虫の音を聞きながらガイド星を睨み、40分間も撮影に苦闘したことを。しかし孤独なはずのドームの中の私を、この日ばかりはCCDの高感度テレビカメラが、一晩中じっと狙っていた。それはNHKのハレー彗星取材班のスタッフ達で、あらかじめアメリカのスミソニアンに取材に行くと、マースデン博士が東洋でハレー彗星を早くキャッチする天文台として、ニュージーランドのマウント・ジョンと日本の芸西を挙げたと言う。まだこの頃は空が暗く、キャッチしたハレー彗星の全光度は20.5等。一般にCCDが普及していない頃で、今だったらまた模様が変わっていたと思う。

 しかしこの頃、当の五藤氏は病の床にあった。芸西でのハレー彗星の日本最初の発見を大変喜んで、夫人の代筆による祝福の手紙が寄せられた。そして、ハレー彗星と2度目の対面を果たす日を夢見て、私の送った同彗星の経路図や検出時の写真を毎日眺めていたのである。しかし人間にとって76年の周期はあまりにも長かった。ハレー彗星の回帰を目前にして、五藤氏はついに他界されたのである。こうしてハレー彗星を2度見る夢は、儚くも消え失せた。でも私は五藤氏がハレー彗星を2度見たと信じている。明けて1986年の4月ハレー彗星の接近と共に実に思いもよらぬ出来ごとが展開していくことになるのである。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)