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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第47幕 スパイカメラと私(2)

 

 苦労して入手した豆カメラの「グッチー」であったが思わぬところでハプニングが起こった。時はあたかも太平洋戦の戦時下、私は風景を写すのが好きで、日々戦局が激化し、変わり行く我が町の風景を写しまくっていた。我が家の中庭には防空壕があって、1945年の7月の高知市大空襲の夜には、この壕に一家で避難したが、いまでは懐かしいその壕の様子をたった1枚、このスパイカメラで撮った写真が残っているのである。茶色に変色した小さな写真は、当時の悲惨な、逼迫した戦時下の暗い生活を思いださせる。
 ある晴れた日のことだった、市内の高台から鏡川の流れる市街の風景を写していた。すると後ろから「おい、ちょっと待て、そのカメラを見せろ」といかにも命令的な怖い声がかかった。振り返るとそこには鳥打帽を冠った、眼光の鋭い男が立っていた。特高(特別高等警察)である。当時はアメリカのスパイが横行していた関係で、警察や軍隊による監視の目が厳しかった。特に高いところからの俯瞰撮影が厳重に禁止されていたのである。相手が中学生であるから、スパイでないことは分かっている。結局警察に連行され、説教の末にフイルムは抜き取られる破目となったのである。これは1945年7月4日の高知市が大空襲を受ける6ヶ月ほど前のことであった。
 スパイと言えば私の家は製紙工場であって、戦時下には一種の軍需工場でもあった。当時国内に潜んだスパイの暗躍によって戦慄すべき事件が発生するのであるが、それはこの物語、もっと後の話である。
 こうして小学生の頃に出会ったミニチュアカメラとの付き合いは、その後永く続いた。そして内外で発売されたほとんどのミニチュアカメラを入手して楽しんだ。其の甲斐あって、この方面の先駆者、宮部甫(みやべはじむ)氏と知りあい、1983年に彼が出版した本「ミニカメラの世界」の多くの挿絵写真を担当した。有名なミニチュアカメラの”ミノックス”の名を星に命じたのもこうしたいきさつがあったからである。



 多くのミニカメラは時代の流れとともに失われて行ったが、ここにたった1台、50年の歳月を経ても、なお現役として活躍しているカメラがある。それは1954年に其の名もイタリアの”ガリレオ社”から発売された”ガミ16”である。明るいレンズと非常に優れた独創的なメカを持った16mmカメラで、当時一軒の家が建つほど高価だったライカや、コンタックスと肩を並べる程の値段がついていた。欲しくても絶対に買えない代物で、いつも夢に見る高嶺の花であったが、その後円高と一寸した縁があって、1979年にロスアンゼルスのある中古店で入手することができた。はじめはただ嬉しくて、しばらくは、持って寝たくらいである。実際に写すことよりも、その美しく洗練されたスタイルを眺めるに終始した。
 まず前蓋を180度ほど開く。レンズとファインダーが覗くが、この動作でゼンマイが巻かれて、シャッターが連続で3回分チャージされる。電池を使わなかった時代の自動巻上げである。レンズはシャープなエサミター25mmF1.9。パララックスは50cmまでの自動補正で黄色のフィルター内臓。フィルムはダブルパトロール入りの30枚撮りで、フィルムが無くなり、撮影マスクから少しでも欠けると、シャッターが自動的にロックされ事故を防ぐ。シャッターはバルブと2分の1秒から1000分の1秒までの広範囲で作動する。ただフィルムの感度が当時はASA100が最高だったために露出計は400に対応しない。しかし半世紀も昔に作られたカメラが、今なお健在で、第一線で活躍できるのは、全く夢のようで奇跡としか言いようが無い。無論専用の16mm幅のフィルムはカラーもモノクロも発売されていない。それで特殊なカッターを工作して、35mmフィルムから自作して使っているいるのである。この名機と自製フィルムで初めて撮った星空の写真をお眼にかけよう。なおこのカメラには望遠レンズやフィルムカッター、現像タンクに専用の引き伸ばし機まで用意されていたが、残念ながら今は入手出来ない。もし故障が起こっても、メカが余も精密かつ特殊で日本では修理できない。従って修理する為にはカメラを発明したミラノのガリレオ社の社長、”ガリレオ”?を呼ばなくてはならない。
 1979年に私が仕入れたカメラには、未現像のフィルムマガジンが残されていた。恐らく前の持ち主が、撮影したフィルムを入れたまま手放したものであろうか。現像されたフィルムには、どっか南方の風景らしい数々の写真が残されていた。見知らぬ島や港町。白亜の灯台のある島。どうやら豪華客船にでも乗ってお金持ちの観光客が世界を漫遊したものであろうか。
 しかしそれから数年後の1986年ハレー彗星を追って南太平洋のニューカレドニアの島を訪れたとき、私はそのカメラで写された同じ風景を見た。それはアメデ島の白い灯台であった。ナポレオン三世が建てたという巨大な灯台は、前世紀までは南半球で一番高い建造物であったと言う。その上に世紀のハレー彗星が輝くと言う、正に値千金の風景。ガミ16は再びその光景を見た。
 私のガミ16は、そうした奇跡を生み出すカメラだったのである。


ガミ16が見たアメデ灯台とその上に輝くハレー彗星
1986年4月8日 ニューカレドニアにて




Copyright (C) 2009 Tsutomu Seki. (関勉)