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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第40幕 日曜市の風景

 

 土佐24万石の山内一豊公の居城だった国宝高知城が見下ろす大手筋で日曜日ごとに開かれる”日曜市”は優に100年の歴史を持つ、高知市でも有名な風物詩である。毎回、早朝から沢山の人で賑い、買うにしても買わないにしても、ぶらつくだけで結構たのしい市場である。昔からマスコミにも多く取り上げられ、テレビで何回となく放映されたが、1966年ごろ「夜のアルバム」というNHKの番組で全国的に紹介され、私が全編のギター伴奏を弾いたこともある。曲目はのんびりとした風情にマッチしたヴィンセント・ガリレイの「シシリアーナ」であった。有名なガリレオ・ガリレイの父で彼は古代の楽器「リュート」の奏者であった。
 今から15年ほどの昔、ある新聞社が風雨の強い人足の少ない日に取材をして写真をとり、あたかも「日曜市」の人気が下落したかのような記事を特ダネ的に扱ったことがあったが、これなんかは記者が手柄を立てたいための早とちりであって、市そのものの人気は些かも衰えていないのである。確かに昔ほどの目新らしさ、安さ、そして人間同士の人情等、日曜市ならではの魅力は変貌しつつあるが、最近は県外や外国からの観光客も加わって、人出は年毎に増加しつつある。ずらーと並んだテントの中は農家から運んでくる生鮮野菜類が多いが、中には昔懐かしい「綿菓子」や赤と青との「ニッキ水」等のお菓子も並んで、まるでどっかのお宮の夜祭りの参道でも歩いているような楽しさを感ずるのである。昔の旧友とひょっこり会うのもこのような場所である。
 しかし市に出品される品は食料品ばかりではない。中には珍しい古道具の骨董品や、とんでもない珍品が並ぶのである。例えば昔懐かしい朝顔型のラッパをもつ蓄音機や、船のスクリューに大きなハンドル。明治のぼんぼん時計に直径が1メートルもあろうかと思う火鉢、面白い形をした刀の鍔に忍者が使った手裏剣の数々。大変に変わったところでは昔の日中戦争のとき、日本の関東軍がぶっ放した野砲の弾丸まで並べて売っているのである。天文関係では、流石山内家の城下町らしく、同家の紋章の入った印籠に殿様が使ったとされる”遠メガネ”、星を描いた巻物にさてはコン天儀の模型。ある店の軒に黒いロシア風の帽子が吊るされているので、その説明を見てみると、なんとあろうことか、日露戦争のとき乃木とステッセルが会見したとき、敵将ステッセルの冠っていた帽子、とある。それがまたとんでもない安い値段が付いているのである。そのような歴史的遺物がこのような田舎の市で売っているはずがない。どうせ偽者に決まっている。お客はそれを承知で買っていくのである。それが日曜市ならではの微笑ましい風景なのである。
 「日曜市 ひなたぼこして 野菜売り」
ふとこのような微笑ましい川柳が私の胸をよぎった。
 多少余談になるが、美しいエピソードを一つ紹介しょう。昭和23年頃であった。
 昼間の市も終わった暮れなずむ路上の隅で、幼い女の子2人をつれた若いお母さんが、盛んに泣き伏している。あたりには日曜市帰りの野次馬たちが取り巻いて見つめている。誰かが「どうしたのですか?」とたずねると母親は泣きじゃくりながら、「3千円はいった財布を落としてしまったのです。あすからの生活をどうしょうかと困っているのです。」と答えた。3千円といえば当時としては大金である。そんな時1人の労働者風の男がしばらく見ていたが、やがて財布から3千円を取り出し「奥さんこれでよければ使ってください。」とお金を投げ出し、すたすたと立ち去って行った。驚いた婦人は「ちょっとおまちください!せめてお名前を」と叫んだが、男は「名乗るほどの者ではありません。」と言って足早に立ち去って行った。
 善意を見せた男性は決してお金もちの様には見えなかった。しかしこの事件は現場にたまたま新聞記者がいたため、翌日の朝刊にて報道され、心温まる出来事として多くの読者の感動を誘ったのであった。昭和23年と言えば終戦直後の暗澹とした世相の時代であった。悲喜こもごも、人の集まる市場にはさまざまなエピソードが隠されていたのである。
 昭和22〜23年と言えば空にはあの「本田彗星」が輝いていた時代であった。
 当時の暗い世相に一筋の明るい光を掲げた本田彗星であったが、思えば私の星の始まりはこの「本田彗星」の出現からであった。



Copyright (C) 2007 Tsutomu Seki. (関勉)