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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第38幕 池谷・関彗星奇談(2)

 

 太陽に接近した彗星を見るために”世紀の発明”と言われた「池式投影ボックス」の中では一体何が行われていたのか?池谷・関彗星が近日点を通った1965年10月21日の13時過ぎ、昼でも暗いボックスの中では発明者の池氏が、持ち前のどんぐり目でじっと明るい投影版の上を見つめていました。いま彗星が姿を現すか、という緊張のボックスの外では、多くの記者やカメラマンがたむろして、お互いに九天を仰ぎ、或いは本社との電話のやり取りに喧騒を極めていました。


白昼、暗室の中で太陽像を見つめる池幸一氏
1965年10月21日 13時

 「池さん、もうそろそろ見えてもいいんじゃない? 間もなく彗星は太陽の裏側にかくれるよ。」
 という聊かいらだった私の質問に池氏は、
 「ウーム、実はさっきからそれらしい影を捉えているんだよ。しかし太陽が明るすぎて確認ができない。これを見たまえ。」
 と言って彼はボールペンの先で、丸い太陽のヘリを示しました。口径12.5cmの屈折望遠鏡に映し出された太陽は、丸くくりぬいた円盤の中を抜けて見えません。コロナの見えるはずの太陽の周辺のみが白い紙の投影板に映し出されているのです。
 「関君、ほらここにちらちら光っている雲のようなものがあるだろう。これだよこれ。」
 といって彼はペン先をちらちらさせながら確認に悩んでいるようです。
 「池さん、これがもし彗星だとすると、とてつもなくあかるいぜ。満月を持って来たとしても、このような場所では見えないと思うが、、、、」
 私の脳裏には10月の初め、太陽に接近して見えなくなった頃の貧弱な彗星のイメージを思い浮かべて、否定的にならざるをえませんでした。しかしこの時刻に乗鞍岳の頂上や岡山県の倉敷天文台では驚くべき現象を捉えている事など思いも寄らないことでした。
 「関さん、ほら!白い雲は動いていくよ。正にこれは彗星だよ!!。」 と池さんが叫んだその時でした。突然暗室の外で「ドドッ、バリバリ」という物凄い音が天地に響き渡りました。
 「大変だ!屋根がつえた!」
 「カメラマンが落ちたぞ、大丈夫か?!」
 などと大騒ぎが起こっています。倉の屋根瓦にたくさんのカメラマンが上がっていたのでその重みで瓦にまるで落とし穴のように丸い大きな穴が開いて、RKC高知放送のカメラマンが煙の如くその中に消えたのです。もう観測どころではありません。記者を助けあげ介抱するのに大童となりました。

 かくしてせっかくの池氏考案の新兵器も成果を挙げえず、高知での観測は見事失敗の巻きとなってしまいました。発見者の池谷さんの所でも見えなかったそうですが、実際に見えたのは近日点通過の間際の遅い時刻よりも、もっと早い午前中の時刻の方が見やすかったようで、上野の科学博物館の村山定男氏は「太陽観測用のサングラスで太陽を隠すと立派にみえた」と言っておられました。また倉敷天文台の本田実氏は「近日点を通過する時の彗星な明るさは満月に数十倍する明るさであった」と、当時の新聞に発表しておられました。乗鞍岳のコロナグラフで撮影された近日点通過中の写真では、彗星はまるで太陽にまきつく大蛇のような姿をしていました。そして撮影を担当した技師は、あとで私に「そのときの彗星の尾は肉眼で見るとまるでタバコの煙のように複雑で濃淡があり、到底写真では表現できるものではない」と語っておられました。その記念すべき写真は暫く乗鞍岳の観測所の事務室の壁に飾ってありましたが今はどうなっているのでしょうか。

 あれから41年、思い出も茫茫としてかすんでしまいました。

 池谷・関彗星が近日点を通過して1ヶ月ほど経ったある日、スミソニアン発の外電は同彗星の核が二つに分裂した事を伝えていました。同彗星発生から永い歴史のうちには、こうした分裂が度々繰り返されて、周期が1000年ほどと言われるその細長い軌道の上にはきっとたくさんの彗星たちが数珠つなぎとなって運行していることでしょう。

 さて池谷・関彗星の思い出を語るには、もう一つの不思議な事件の事を見逃す訳には参りますまい。


朝焼けの中の池谷・関彗星
1965年11月4日5時26分〜27分
50mm F2レンズ、エクタークロム160フィルム
撮影:池幸一・関勉(高知市新居海岸)



Copyright (C) 2006 Tsutomu Seki. (関勉)