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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第35幕 マウナケアの星(2)

 

 その人の名は”ヒロ君”と言った。ヒロ市に住むヒロ君である。どうやら日系のアメリカ人らしい。年の頃は40歳半ばにみえるが、実際には24歳と若い。ハワイの人にありがちな頑丈な体躯で黒い肌に大きい目がギロリと光る。それに黒い無精髭を生やして一見怖いような人だが、付き合ってみると外見に似合わず親切で優しい人であることがわかる。昼間私たちをすばる天文台に案内してくれた地元の観光会社の職員であるが、星にも詳しいらしくて、彼の会社が主催する”太公望ハワイ星空教室”と言うパンフレットをくれた。星にも草木にも、そしてハワイの土地にも大変詳しくて、翌日彼の案内でマウナウルの火山地帯を観光したとき半日付き合ってくれて、じつにたくさんのハワイ島の植物や火山について教えてくれた。マウナウル附近の大噴火が意外と新しい1969年頃であったことも教えてくれた。
 その夜は雨が盛んに降っていた。ヒロ君が迎えにきてヒロ市の宿を出発したのは8月19日の19時30分だった。相変わらず強い雨がフロントガラスを叩いてワイパーが盛んに動いている。「マウナケアのお天気は大丈夫ですか?」と質問すると、「任しておいてください」と、自信有り気である。ほんの10分も走れば繁華な街中を抜け、暗い一本の山道にさしかかる。この道の続く遥か彼方に世界で最も高く星空の美しい天文台があると思うと身がひきしまる。すれ違う車はほとんどない。ただ一台の車が追い越して行った時、ヒロ君は天文台の車はすぐ分かるらしく、「あれはハワイ大学の車で彼らの天文台に行っているのです」と教えてくれた。
 ヒロ市の宿舎を出発して、1時間くらい経ったころ「ほら星がみえだしました。」とヒロ君が言う。一つの青い星が、まるでフロントガラスの水滴かと思われるようにガラスにくっつくようにして光っている。「どのくらい上がりましたか?」と聞くと、「もう2000mをこしました。間もなく鬼塚記念館です」とこたえる。
 このとき私の座っている後部座席の右側のガラスに突然南天の星座が映った。さそり座である。それは信じられないほどの光の強さで暗い木立の中に見えかくれしている。「うわー凄い!」私たち3人は思わず感嘆の声をあげ、ガラス窓に釘付けとなった。
 海抜2800mの鬼塚記念館は素通りした。とたんに道は悪くなって車体は大揺れをはじめた。頂上に立ち並ぶ天文台への光害を心配してヒロ君はなんとこの暗闇の中を無灯火で走り始めたのである。昼間至る所に崖があって複数の車が落ちているのを見た。しかしヒロ君は度々上がって慣れているのか、幽かな星明かりだけを頼りにどんどんと車を進ませるのである。そう言えばホテルを出発する時車の補助灯やバック灯にも赤いテープを貼ってあるのを見た。どうやらヒロ君はマウナケアの天文台を見せる”お忍び”の運転手らしい。彼の会社は土曜と日曜が休みなので個人的に相手をしてくれたのだが、まだ彼の正体はよくわからぬ。
 麓を出発して2時間ほどたったろうか、車はようやく天文台附近の舗装された道を走り闇の中で停車した。ここが道路の終点で今日の昼間記念写真を撮った、あのスバルのドームが水平より下に見える場所に来たらしい。運転手のヒロ君が先に降りたが暫く経っても帰ってこない。あたりの地勢でも確かめているものかと思っていたが10分経っても帰ってこない。外に向かって「オーイ」と声をかけたが、ここは絶壁の頂き、こだまさえ帰ってこないのである。(一体どうしたことだろう?)と私たちは不安になって恐るおそる外に出たのである。しかし私たちを襲ったのは一寸先も見えぬ闇とまるで巨大な冷蔵庫の中にでも入ったような寒さである。気温摂氏30度の真夏の下界から急転して標高4200mの山頂の冬に変わったものだからなんとも体が持ちこたえられない。早速三脚を立ててスバルの上空に展開する壮麗な天の川の撮影に取り掛かったが寒さのため指が言う事を効かない。それに昼間体験したあの高山病の苦しさ。それに風まで出てきてなんとも地獄の苦しさだった。着いてから凡そ30分も経ったが案内人のヒロ君は現れない。4200mの地の果てに置き去りにされたようで、段段と寒さより不安のほうが大きく心を支配しはじめた。
 私はこのとき芥川竜之介の小説に出てくる小説「杜子春」のことを思い出した。
仙人になりたくてすがめの怪しげな老人について行き、ホウキにまたがって中国の峨眉山という高い山に修行にいく。頂上の岩山に置きざりにされ、さまざまな肝試しを受けることになる。嵐や稲妻や虎や白い大蛇の襲撃を受けながらも仙人の言いつけを守って、じっと押し黙っているのだが、その文章のなかに、「ここはよほど高い山とみえて、北斗の星が茶碗の大きさくらいに光っていました」と言う下りがある。(中国の峨眉山とハワイ島のマウナケアは一体どちらが高いだろう?)と思った。峨眉山は後ろが断崖で岩場に生えた一本の大きい松ノ木に夜風がビュウビュウと唸った。ここマウナケアには草木はなく乾ききった火山岩の山である。風は微風ながら氷点下の大気を容赦なく私たちの肌に吹き付けてくる。しかし標高4200mの薄い大気の上に展開する天の川の輝きは何に例えたら良いだろう。天の川で最も明るい射手座附近の輝きはまるで満月を叩きつけて砕いたかの様な強い光芒である。その天の川の光はさそり座から更におおかみ座附近を下って南の地平線までまだまだ遠い。はるかに遠い太平洋に浮かぶ小島の都会らしい幽かな明かりがそこに天と地の境があることを教えてくれる。
 一方北はと見れば、すぐ近くにイギリス・フランスの共同の天文台があってドームを全開にして観測している。その上もまた物凄い銀河。このような所で彗星の捜索をやったら一晩で見つけてしまうんではないか、と真面目に思った。


UKIRT-赤外線望遠鏡(イギリス)
50mm F1.4にて5分間の固定撮影 プロビア400

 さて、すばるの天文台は何処に、と見ればやや北西の方角に俯瞰してその特徴のあるドームの輪郭をみせている。赤い小さな灯がポツンと光っている。すぐ右側のケック1にも灯っている。これらのドーム群の上には見事な北斗七星が落ちかかっている。峨眉山の上の北斗七星が茶碗の大きさならマウナケアの上はまるで無数の牡丹雪が降るような星である。
 やがて21時、月の出の時刻が迫って東の空が明るくなり、すばるの輪郭が鮮やかに浮かんだ。ドームのその向こうは白い下界の雲海で、マウイ島のハレアカラ火山(3055m)が雲海を突き上げる様に鮮やかに浮かんでいる。1965年10月20日、かのイケヤ・セキ彗星が太陽の表面に迫った時、白昼の撮影に成功したのが、このハレアカラ火山である事をふと思いだした。ああこのような壮麗な星空の下で観測出来ることの素晴らしさよ! それは正に別天地であり私たちが行う10年分の観測を1日に凝縮したものである、と思った。
 月の出を合図に車のなかに入ると、いつの間に帰ったのかヒロ君が居て「もう終ったですか、外は寒かったでしょう」と声をかけてくれた。余りの美しさに陶酔した我々は半ば寒さも忘れていた。
 下山しながら車の中ではここマウナケアの星の話題で賑わった。山頂の天の川に目を向けた瞬間、地学が専門の川添さんは「これは明治時代の天の川ですか!?」と思わず叫んだが、なるほど大昔は灯火がなく大気が澄んでいたので、平地でもこのような壮麗な銀河が見られたかもしれない。私たちの芸西村でも、昔から住んでいるお年寄りが「今は天の川が見えないのですが、どうしてでしょう?」と真面目に聞いてこられたことがある。天文台周辺では今も薄いながら天の川はチャンと見えているのである。しかし考えてみると今の光害の中に浮かぶ天の川と大昔の天も地も分からないような真っ暗がりのなかに浮かぶそれとは全く違うのである。昔はいやでも頭上に物凄い星があったので自然と目が向いた。今では、そこに天の川があると意識して見ているから見えるのであって、一般の人にはなかなか気がつかないのである。
 1970年代の初め芸西の私の小さな小屋で観測が始まった頃、黄道光は無論、夜半の対日照までありありと眺められた。天体写真がそのためにかぶるのではないかと心配するほどに芸西の空は暗かったのである。太古の人々が夜空に感心を示し、星座を形作ったり、星占いをやったり、更に星の動きに注目して宇宙の構造を探ったり、さてはその中での人類の境遇について考えたのも必然があったかも知れないと思った。マウナケアの銀河は、私たちが天の川と言う大きな島宇宙の中に居るということを始めて実感として教えてくれたのである。
 山を降りヒロ市に入ると、相変わらず蕭蕭として雨が降っていた。
(大宇宙から生還した!)その様な気持ちでホテルに入った。窓を明ければ港が見える。海は街の煌びやかな灯を映して青や赤のネオンが美しかった。近くのバーで飲み明かしているのか人の騒ぎが伝わってくる。然したった今マウナケアの神秘的で壮麗な宇宙を見て来た私には、そうした人間たちの騒ぎが空虚なものに思えてならなかった。


(追記)
 この文をOAAの機関誌「天界」2001年1月号に発表しましたところ、横浜の西山峰雄氏からお便りがありました。それによりますと、この年中国を旅した同氏は機上から「峨眉山」を見たそうです。マウナケアとどちらが高いか?と言う疑問に対して、峨眉山は標高2800mでマウナケアのほうが遥かに高いと教えてくれました。「杜子春」の修行した山は小説の中の架空の山かと思っていましたが現実に存在する山であることを知りました。



Copyright (C) 2005 Tsutomu Seki. (関勉)