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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第30幕 プラネタリュウムと潜水艦 3

 

 「関君、明朝10時に高知港の埠頭にきてくれたまえ」と言うSさんの言葉が妙に気になっていました。いつもとんでもないことをやってのけ、人を「アッ」と言わせるのが得意のSさんのことだから、今度もきっと猟奇に満ちた事件に違いないと思って私は言われるままに高知港に出かけたのです。そうしたらどうでしょう、高知港の埠頭一体は黒山の人だかり。手に手にカメラやTV用の撮影機を持った報道関係の人たちも多く混じりごった返しているのです。そしてさらに驚いたことに当時のY市長までも出迎えにやってきているのです。そうです!この日高知出身のSさんが手製の潜水艦で高知港に堂々の入港を行うということが地元の「高知新聞」に大大的に報道されたのです。
 昔アメリカの飛行士フランク・チャムピオンが大正時代のまだ飛行機が大変めずらしかった時代に、高知市の柳原上空でさまざまな曲芸飛行をやって見せ、市民を驚かせたこがあります。さらに昭和10年、当時としては珍しい女流飛行士が高知市の朝倉の錬兵場上空で落下傘によるダイビングをやってのけ人々をアッといわせました。この時も44連隊の広い錬ペイ場は海のような人また人の波。今回のSさんによるショーはこの時のことを思い出させるに十分な大規模のものでした。
 さて人々の待つ埠頭がどよめきはじめました。昭和XX年10月XX日、午前10時M新聞社のヘリコプターに先導されるように、半分沈んだような白い船体の潜水艦が現れ静かに岸壁に向かって近づいてきました。海軍旗をへんぽんと翻した甲板には懐かしい海軍軍人時代の制服をまっとたS氏がこれも海軍式の挙手の敬礼をやって歓呼に応えました。こうして彼の見せた若々しい笑顔はかって40年の昔、プラネタリウムを作って初めて投影に成功した時のあの希望にみちた若々しい笑顔となんら変わるものがありませんでした。
 それから10年経ったある日、私は桂浜の”竜馬記念館”を訪れました。広い庭の片隅にひっそりとしてあの時の潜水艇が置き忘れたかのように見世物になって残されていました。遠くに海が見えます。高台に坂本竜馬の銅像がこちらを見下ろしています。竜馬の思想を象徴するような渺茫たる海の色。その海に向かってのりだそうとしたSさんの心。目的はちがえどそこには土佐人独特の気質が篭っているような気がしてなりませんでした。一組の若いカップルが珍らしそうに潜水艦をながめ、説明のたて看板を読んでいました。今の若い人たちにSさんの思想がどのように写っただろうか。目的は「海底探検と海難救助」とあります。今は亡きSさんは今も彼方に夢を育んでいるような気がしてなりませんでした。渚を歩く私に打ち寄せ波は何かを語りかけているようでした。「オーイSとやら、なかなかやるのう、あっぱれじゃ」吹く風のなかに海えん隊長だった竜馬の声をふと聞いたような気がしてなりませんでした。



Copyright (C) 2005 Tsutomu Seki. (関勉)