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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場


第2幕 幽霊屋敷での出逢い

 芸西天文台の事務所は高知市の財団法人「文教協会」の中にある。今から47年の昔「東亜天文学会高知支部」が置かれていた同じ所である。全くの偶然とはいえ何か因縁的なものを感ずるのである。天文台運営の件でここを訪れていた私は元師範学校卒業生の名簿の中に「青木夕起子」の名前を発見し唖然とした。早速家に帰って電話のダイヤルをまわした。
 今から遠く60年の昔、私が第四小学校の1年生に入学した時の懐かしい女の先生が出る筈であった。しかしベルは何度も鳴り続けるだけで応答は無かった。2日後に再び連絡してみた。しかし結果は全く同じで、電話はまるで60年の昔を模索しているかのごとく空しく鳴り続けた。受話器を握りしめる私の脳裏には遠い日の思い出がよみがえった。
 私は幼少の頃から極めて病弱であった。ありとあらゆる大病を経験し、幾度か生死の境をさまよった。私の兄は5才で病没していた。そんな関係で両親は極度に神経質となって私を育てたわけだが、生活全てにわたって余りにも大事にされた結果、わがままでひ弱な人間として育った。学校では先生のいうことをろくに聞かず、なおかつ持病が尾を引いて授業も休みがちで勉強嫌い。教室では劣等生の烙印が押された。青木先生はそんな時代での担任だったのである。年齢は20才。長いこと肺結核を病んでいるとのことだったが、瘠せて鬼のような顔をした怖い先生だった。教室では授業の態度が悪いとか、宿題をやって来ないとかでずい分叱られ、迎えに来た母親もいっしょに薄暗くなった教室で説教された。間もなく2年生になって先生が変わったが、彼女はその後病気が悪化し永いこと入院された。そして悲観的な噂が立っていただけに、60年も経って健在で居られようとは信じられなかった。
 2年生の時は、久保先生と云う年とった女の先生で、よく土佐の昔話をして下さった。そのストーリーの幾つかは今でも憶えている。その後3年生になって岡本啓先生と出逢うことがなかったら、私は落ちこぼれの実にくだらない人生を歩んでいたことと思う。無論、天文学を学ぶようなことも無かった。若い時代の”出逢い”とは実に数奇なものである。岡本先生のことは後で奇跡的なドラマが展開する。
 私が小学校に入学する前は高知市の柳原幼稚園に通った。大病を患っていた時期でもあって多くを欠席した。幼稚園の長野君子先生は実にやさしい先生だった。園では弱虫の私を可愛がってくれ、授業の時間には沢山の歌やお伽話を聞かせてくれた。帰る時には玄関に必ず母の顔があった。振り返ると、あの優しい長野先生が手を振っていた・・・。その思い出から60年。何と長野先生がひょっこり私を訪ねて下さったのだ。そして幼稚園の頃と何ら変わらぬ口調で「関君!」と呼んで下さった。私たちはお互いの健在を喜び合って思わず泣いた。
 当時の柳原幼稚園は鏡川を見降す小高い丘にあって、私が園に通っていた昭和12年頃すぐ近くの柳原一帯で第1回の南国博覧会が開かれた。”土讃線全通記念博”と呼ばれるもので当時としては空前の規模を誇る催しであった様に思う。何しろトンネルが103個もある険しい山岳地帯の難所に鉄道が開通したと云うので大変な熱の入れ様であった。場内では鉄道関係は勿論、ライト兄弟やフランク・チャムピオンの飛んだ飛行機の実物大模型が飾られていたり(当時高知県では飛行機が珍しかった)アイヌ人とその文化が展示していたり、アメリカ人らしい冒険家がオートバイを使って大樽の中を回転してみたり、そしてどこの会場にも見られるサーカスにお化け屋敷。一通り見物した私は、怖い物見たさに父にせがんで最後に幽霊屋敷に入ることにした。ああ、このお化け屋敷の中にこそ、私のその後の人生を決定付ける様な重大なできごとが待っていようとは・・・どうして予測できたであろうか。
 大体お化け屋敷の手は決まっている。まずは観音様の扉が開いて宙吊りの幽霊が飛び出してくる。そして踏み切りを渡ると血まみれの生首が転がっている。こんなものは怖くない。狭い竹薮の中を進んで行くと古井戸があって、その中から番町皿屋敷で有名な”お菊”の幽霊がスーッと立ち昇ってくる。あちこちで「キャーッ」という悲鳴が起っている。さすがにこの辺で怖くなって、竹薮の迷路を急ぎ足に抜けると急に目の前が開けて、奇妙な建物が立ち塞がった。これが幽霊屋敷の終着駅か、何が出るだろうかと恐るおそる近づいた。実はこの小さな館にこそ、それから50年後に芸西村の天文台に現れた”幽霊”の正体が潜んでいたのである。
 (第3幕へつづく)



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