トップページへ

連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第27幕 チャムピオンの星始末記

 

 大正6年(1917年)10月30日、ようやく晩秋の色濃いここ高知市の上空には湖のような青空がひろがっていた。
 飛行服に身をかためたアメリカの飛行士フランク・チャムピオンは満場の大観衆の拍手喝采に支えられ、小さな愛機から降り立ち、大きく両手を挙げて歓呼にこたえた。高知市の10万の市民にとって飛行機は初めての経験だった。チャムピオンのことを"鳥人"と呼び、珍しい空中曲芸のはなれ業に惜しみない賞賛の拍手を贈ったのである。この異郷での歓迎振りに感激したチャムピオンは、もう一度空中ショーを演じようと再び愛機に乗り込み、筆山の空に高く舞い上がって行った。しかし、ああこれがチャムピオンにとって最後の飛行になろうとは誰が予測したであろうか。
 自宅の屋根の物干し(それから40年後に私がホウキ星を発見した場所)で、この空中ショーを目撃した父の話。
 『当日は風が強かったが雲ひとつない秋晴れだった。チャムピオンの複葉機は軽々と上昇を続け筆山(標高150m)の5倍ほどの上空に旋回しながらあがっていった。そして宙返りを3回続けてやった。会場から大きなどよめきがおこった。次にきりもみにエンジンを止めて木の葉落とし。地上寸前で再び急上昇を始め、空高く上がってもう一度宙返りをうとうとした瞬間だった。突然片方の翼が機体から離れてピラピラピラと空に舞ったと思うと機体は急転直下、大地に向かってまっしぐらに落ちた。』
 この時チャムピオンは片手を操縦席から出し下の観客に向け大きく振った。それは(危ないからどきなさい!)と言う合図であったと言う。チャムピオンの優しい人柄は死の直前まで観客の命を守ろうとしたのである。

 このショーの会場となった広い柳原の中央にテントを張り、空中ショーを終始じっと見つめていた和服の男がいた。この人こそ今回のショーのためチャムピオンを招いた主役の鬼頭良之助であった。鬼頭(本名森田良吉)は当時高知県を支配した侠客(きょうかく)であり、また興行師でもあった。母の話によるとその頃のこうした催しはすべてこの人が取り計らっていたと言う(鬼頭氏のことについては宮尾登美子女史の小説の中に花柳界の顔役として度々登場している)。この事故のあった翌年、柳原一帯を見下ろす土手の上に、鬼頭氏によって立派な記念碑が建てられ、この地にチャムピオンの遺骨の一部が埋葬された。

 私がF・チャムピオンのことを知ったのは幼少の頃であった。家のすぐ近くにある柳原幼稚園に通いながら、土手の上に建っているチャムピオンの記念碑のそばでよく遊んだ。父母からチャムピオンと言うアメリカの飛行士の墓であることを教えられていた。昭和12年4月、この柳原一帯で第1回の南国博があり、その会場の中に五藤光学が"太陽館"を建設して多くの人に黒点を観せた頃である。その頃、この柳原幼稚園にH君という同級生が通っていた。彼は地元の大学を卒業後ある新聞社に入社し学芸部に席を置いていた頃、私の新聞連載を担当した人である。この連載は後"未知の星を求めて"という題で出版された。いわばこの本の生みの親でもあったわけだ。私の所へ毎日原稿を取りに来ていた記者も、のち社長から会長へと名誉ある役職を進んだ。そしてチャムピオンの死から80年も経って、テキサス州のシャーマンにあるチャムピオンの実家と連絡をとったのである。1996年11月、一人娘のジーン・マスキュリンさん(95歳)が新聞社の招待によって高知市を訪れ、父チャムピオンの墓と涙の対面を行ったのである。

 この頃から、私の頭の中に"チャムピオンの星"のことが浮かぶようになった。毎年春が訪れ鏡川の水がぬるむ頃になると、水面で羽根を休めていた無数の鴨たちが一斉に飛び立って、残雪の輝く四国山脈を越え遠く北の異郷へと旅立つ。小高い丘の上からこの光景を毎年眺め、チャムピオンは自分も再び空に舞って、故郷に飛び立ちたいと何度思ったことか。空を飛ぶ時が最大の幸せだったと言うチャムピオンは、ようやく永い眠りから覚め今や小惑星(8732)として宇宙に向かう時がやって来た。すなわち1996年12月に芸西で発見した小惑星1996 XR25に"Champion"と命名したのである。こうしてチャムピオンは永遠に宇宙を飛び続けることになった。思えば幼少の頃南国博の太陽館で出遭った五藤斉三氏。そして、幼稚園への行き帰りに遊んだチャムピオンの墓地。鼻たれ小僧だった私が、それから数十年の歳月を経てこの2人を小惑星に命名する。偶然のこととは言え人生の奇縁を感ぜずにはいられない。小惑星の命名というものは、この様に発見者自からの意思によるゆかり深いものでないといけないと思っている。

 最近になって新聞社会長のH氏から電話がかかってきた。『チャムピオンがあなたによって星に名付けられたことを遺族に伝えたいが、何かコメントはありませんか?』と言う内容であった。私は恐らく人々に知られていない事実として次の事柄を伝えてもらうように依頼した。
 『チャムピオンの遺体はモッコに包まれ2人の男によって担われ鏡川を北に渡りました。病院に向かう途中、上町2丁目の町並みを通り、いったん製紙工場を営んでいた私の家の前庭に下ろして休んだそうです。若い頃の私の母は、遺体にそっと菊の花を添え合掌したと言います。チャムピオンの腕には一面に田んぼの土が付着しておったそうで、これによりチャムピオンが観衆に向かって手を振っていたことが立証されたわけです。体の汚れた土を拭いてやると幽かに息があったのか、チャムピオンは「アリガト」とつぶやいているような気がした、と言います。』
これはチャムピオンの事故死から実に80年も経って、家族のもとに伝えられた事実の証言であった。この知らせを受けた一人娘のマスキュリンさんは、早速スミソニアンに出向いて事の事実(命名の件)を確かめると共に、次のような手紙を送ってきた。

 『父フランクは木製の飛行機を汽船に積んで、1917年の夏日本に旅立ちました。そして日本各地で飛行ショーを行い、最後の開催地が高知市でした。父も東洋の多くの人々に空中曲芸を見ていただき本望だったと思います。そして関さんには父の名を星につけていただき、父もこの上ない幸せと天上で喜んでいることと思います。また遭難の折には関さんのお母様を始め、多くの日本人に手厚い看護をしていただき、その事実を知った今、心からなる御礼を申し上げます。私ももう95歳になり、再び日本を訪ねることは困難と思いますが、もし実現するならば、関さんにもお目にかかり御礼を申し上げたいと思っています。異国で亡くなった父が星になって、とても身近かに感じられるようになりました。晴れた日には星空に向かって十字を切り父の冥福を祈っております。』

 4月のある晴れた日、久しぶりに鏡川に出てみた。そしてチャムピオンの碑の前に立った。満開を過ぎた桜の花片がひらひらと彼の墓標に降りかかっていた。誰が植えたのか墓の前の斜面には色とりどりの春の花が咲き誇っていた。こうして異郷の地でいつまでも人に愛されつづけるチャムピオンは幸せだと思った。鏡川にはもう鴨の姿は無かった。チャムピオンの魂もきっと鴨たちと共に大空に飛び立ったのだと思った。私は岸辺に立って80年の歳月のことを考えていた。80年昔の親善は今こうした形で甦ったのだと思う。鏡川の清洌な水はなにごとも無かったように流れ、今日も筆山の影を写していた。



Copyright (C) 2004 Tsutomu Seki. (関勉)