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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第26幕 古い星図は語る

 

 1950年代に本田実氏の御好意で入手した15cm反射鏡の他に、実はその頃大変な宝物を戴いた。それは彗星捜索者にとって欠かすことの出来ない星図"ベクバル星図"であった。
 星図はいま優秀なものが比較的容易に入手できるが、その頃の日本では外国製の星図は入手困難で、分点の古い戦前からの物に頼っていた。コメットハンターにとって特に必要なのは、彗星と紛らわしい星団・星雲の多く記載されたもので、戦前から1950年頃まで本田氏はノルトン星図を愛用された。このノルトン星図は星図というより天体観測の入門書のような本で、その巻頭に8枚16頁からなる星図が印刷されていたのである。星図には星団・星雲が同じ記号で表示されており、小口径での彗星捜索の最小限の要求を満たすものであった。
 この頃(1950年)の私は初めて出逢った"村上星図"を使用していた。しかし余りにも多くの星団・星雲に迷わされて能率が挙がらなかった。そんな時、本田氏から、『星図は何を使っていますか?コメットシーカーの選定よりも星図の方が大切で、できることなら良い星図を入手した方が良いのですが』、との優しい問いかけの言葉を戴いた。それも私ががむしゃらに星図を使って苦労していると見た本田氏のご温情だったのである。
 1947年頃から当時"鉄のカーテン"のあちらだった、チェコ・スロバキァのスカルナテ・プレソ天文台で計画的な彗星捜索が始まった。今のリニア計画を思わすものがあるが、彼らは標高1400米のタトラ山中で、複数の口径10cm25×の双眼式コメットシーカーを駆使して多くの成果を挙げた。ベクバル台長自らも発見。ムルコス、パジュサコバ両氏の活躍は勿論、クレクサ博士、ヴォサロバ女史等天文台を挙げての大活躍だった。そのプロの彼らが使っていたのが、特に彗星捜索のために作成されたと思われるベクバル博士著の"スカルナテ・プレソ1950"であった。当時の標準分点だったことも嬉しいが、何と言っても彗星と紛らわしい13等級以上の銀河が、ことごとく記載されているということが魅力であった。しかし非売品ということで一部の専門家のみが所有するという、私の如き名も無き一介のコメットハンターには全くもっての高嶺の花だったのである。
 1950年にいただいた本田氏のお便りの中で、『目下水路部の監物氏がこの星図を複製しているので、成功すれば一部見本としてお送りする』ということが書かれていた。当時としては今の様にコピー機があるわけではなく、写真に撮って複製するか、或いはトレースして青写真に焼くかの方法しかなかった。実は当時いただいた16枚の大判の星図は見事な手書きによるものであった。この大変困難なトレースの作業を行われたのが、当時(1949年)倉敷工業高校3年生だった監物邦男氏であったのである。
 この星図は本田氏が心配された『変色しませんか?』という言葉をよそに、私の彗星発見前夜ともいえる長い夜の10年間、実に良く働いた。1953年12月に発見された微光のパジュサコバ彗星(C/1953 X1)を日本で早期にキャッチしたときも、多くの銀河と区別するのにも有効に働いたし、分点が新しいということも、多くの彗星の経路を記入するのにも便利であった。そして実際の掃天中に出逢った星団や星雲は、星図の中のそれにアンダーラインを引き、光度や形状等、特徴を記録していった(のちセキカタログとなる)。10年間の使用によって生きた貴重な資料となった。こうして来るべき"Comet Seki"発見への足固めを行なっていったのである。前にコメットシーカーとパソコンが連動して怪しい天体を捉えた時、その周辺の銀河が画面に現れる便利な方法があることを紹介したが、実際の発見に大切なものは、過去の永い間に培われた経験であり、人間の頭脳に基づく適正な判断力である。便利な器機に頼り過ぎると、とんでもない失敗を演じることになりかねない。永年使い慣れた星図ほど有り難いものはない。彗星捜索に必要な星図は自分で作っていくもの、といっても過言ではないと思う。こうした生きた星図の使い方を大先輩たる本田氏は実行された。スカルナテ・プレソ星図が入ってくるまでに、本田氏のノルトン星図は、それに勝るとも劣らない立派な捜索用星図として完成していたのである。いま青焼きの星図を見るときに、銀色の鉛筆で記録していった文字がなつかしい。晩年のペルチャー彗星が。激しい明滅を繰り返して行ったショーマス周期彗星が。そして奇跡の再発見となったクレサク彗星(タトル・ジャコビニ・クレサク彗星)。そして1955年の夏、明るくなって多くの天文ファンを湧かした本田彗星の経路が、なつかしくも新鮮なイメージとなって私の胸に甦るのである。正に私の試練の時代とも言える新彗星発見前夜の苦闘を記録した星図だったのである。
 私が監物氏と初めてお会いしたのは、それから40年以上も経った1995年2月であった。本田慧様ともこの時40年振りにお目にかかった。この時星図トレースの話は出なかったが、それらの事情は本田実氏から聞いて知っていた。倉敷天文台の原澄治・本田実記念館を見学しながら、実は私の心は感激に打ち震えていたのである。そこには本田氏が初期の頃、彗星捜索に愛用したと思われるコメットシーカーの四角い木製の古い筒が展示してあったのである。古色蒼然たる鏡筒。ああ、この筒は幾度か彗星発見の新鮮なる感動を本田氏に伝えたことか。彗星発見ということは金をかけた立派な器械や恵まれた設備ではなく努力そのものだという強い印象を改めて感受したのである。
 このテレスコープでの最初の成果は1947年11月であったと思う。敗戦後僅かに2年。南方から復員された本田実氏は、広島県瀬戸村の自宅で早速彗星の捜索に取り組まれたのである。
 1947年11月15日の早暁午前5時、ちょうどエンケ彗星の輝いているおとめ座から、視野は水平に辿って東南の地平線上僅かに姿を見せて来たからす座へと移動して行った。11月中旬とはいえ気温は氷点に近づこうとし、ピョーという1番列車の警笛も一瞬夜空に凍る思いであったという。星図照明用の100ボルトの赤ランプを、手袋の上から掴んで僅かな暖をとりながら見て行くと、うみへび座のM68の8等級の星団が見えた次の瞬間、その僅かな東南の低空に白くモーローと輝く8等級の彗星状天体を発見したのである。このふきんの天空の掃天に十分習熟した本田氏は、星図を見るまでもなく新彗星と断定されたのである。時刻は薄明の押し寄せ始めた午前5時30分であった。
この発見報は直ちに東京天文台に打電されたが、当時敗戦国でGHQの支配下にあった日本では、正規のルートでセンターに報告することが困難で、マスコミのAP電を利用して外国に通達されたというエピソードが残っているが、私はそれについて明確な知識をもたぬ。
 新彗星は発見後、1日2°〜3°ほどのスピードで南下していった。敗戦後の混乱した時代でもあり、結局北半球では観測されず、かなり増光しながら南半球の空に侵入していった。マースデンのCatalogue of Cometary Orbits 2000を見ると、近日点を通ったのが本田氏発見の2日後で、各要素は概略値しか与えられていない。観測は20日間で、当時の天文台の手薄さが伺えるのである。
 北半球では本田氏以外に見た人が居なかったことになっているが実は居たのである!本田氏の発見から数日後、見学の中学生の一団が倉敷天文台を訪れた。応対された本田氏は、『もし明暁天文台に来られたら珍しい天体をお見せしましょう』と学生たちに約束されたという。その翌暁、熱心な数名の学生が来たので、本田氏はカルバーの31cm鏡を使って、学生たちに発見されたばかりの新彗星を見せた。実はその中の1人が監物邦男氏であったという。本田氏は後で『あの時ホウキ星を見られた学生たちは幸せであった』と述懐されている。監物氏はその後天文台の構内に在った水路部関係で、ずーっと本田氏と共に在り、また本田氏が亡くなられた後も記念館のお世話をされている。正に影の功労者であると思う。
 もう、あれから半世紀も経ってしまったが、私と共に夜露に濡れ苦楽を共にして来た色褪せた星図が、私に昔の出来事を語りかけてくれるのである。
 "ああ偉大なる本田実氏は今や亡し"



Copyright (C) 2001 Tsutomu Seki. (関勉)