トップページへ

連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第25幕 コメットハンターの精神

 

 亡くなったはずの山本さんがやって来た!?現実にこんなことがあって良いだろうか。茫然として階段の中段に立っている私に、お客さんはにこにこ笑いながら「山本と申します。兄の竜雄がずい分とお世話になりました。この度国分寺に赴任して参りましたが、息子がギターを習いたいと申すものですから、お願いに上がりました」と律儀らしい態度で言った。何と山本さんには、まるで双子かと思われるそっくりの弟さんが居たのである!国分寺とは南国市にある四国第29番の札所で、いつぞや南国市の国道で会った山本さんにそっくりの人は、やはりこの人だったのである。これですべての謎が解けた。やはり亡霊なんか居なかった。兄の山本さんは立派に成仏され今は天国でゆっくりと星を楽しんでいるのであろう。私は気になっていた天体望遠鏡について尋ねると、それは3台とも家宝として大切に保存されているとのことであった。

 思えば本田実氏の15cm鏡の行方について、その詮索がここまで進んできたのであるが、山本さんの15cmF6.3鏡が本田氏のものであった、との確証は全く無い。おそらくそれは別物であろう。しからば本田氏の鏡は一体何処へ行ったのであろうか?数々のホウキ星を観測し発見した名鏡は今でも美しい星を映しているであろうか。それとも、どっかの物置きにでも仕舞い込まれて、いつの日にか再び星を映す日を待っているのであろうか?もし本田氏の鏡が永久に姿を現わさぬものとすれば、それは私のコメットシーカーとして生まれ変わり、立派に使われていると思って安心していただきたいのである。「私のと全く同じ鏡ができるということは何かにつけて大変便利なことです。どうか十二分に活用して新しい星を見つけるよう、お祈りします。」私の15cm鏡が完成したときの本田氏の激励の言葉を想起し、感無量なるものを感じるのである。

 彗星を発見するのに1番大切なことは何か?ともし聞かれるならば、それは捜索に全神経を集中し、無念無想の境地において観測に徹することである。この精神統一を助けるのがシャープな光学系であって粗悪なレンズや鏡では到底観測に集中することは出来ない。初めて発見される頃の新彗星は非常に微弱であってモーローとしている。たくさんの微光星の中から僅かに滲んで、その様相を異にする天体を見分けるのは立派な光学系であり、良く訓練された眼であり、そしてそれを支える落ち着いた精神であり経験なのだ。私は新彗星は6つしか発見していないが、そのいづれもが発見した後で(ああ今日も何も考えていなかったなあ・・・)と静かに回想する。いわゆる無念無想の心境である。そして不思議なことはモーローたる天体が視野を通過したとき、目には見えなくても心が異常に気付き、視野を停めるのである。『なんだかよく見えていないが、ここには判然としない何かがある』、そう思いながらじっと見つめているとおぼろ気に彗星様の天体が浮かんで来る。私はホウキ星の発見は心で見つけるものだと思っているが、ここらあたりがホウキ星と人間との微妙なやりとりである。目ではっきり見える頃にはどっかで既に見つかっている場合が多い。こうして星空の異常に度々気付き星が美しく見える様になった時こそ発見も近いのではないだろうか。今はリンカーン天文台や他の計画的な掃天で、折角の捜索を断念する人を段々と見かけるが、コメットハンターというものはそんなに精神的に弱いものだろうか?写真捜索の世界では確かにそれは脅威かもしれないが、太陽の界隈を探す眼視の世界では決して致命的ではない筈である。私は1970年に最後?の発見をして以来彗星は見つけていない。それは観測地が遠方になって、朝夕の捜索がやりにくくなったためである。しかし捜索は続けている。今はリンカーン天文台の活動によって発見は困難になったと言うが、我々はリニア計画の無かった長い期間に発見していない、という事実をどう見るのであろうか?我々にとってリニア計画なんか大した問題ではないのである。要はいつかやってくる成功を信じて頑張ることだ。
 芸西天文台に移ってからの私は写真観測が主流になってしまって、眼視は従になってしまった。本田氏の晩年は勿論捜索もやっておられたが、どちらかというと写真による新星捜索が主であった。いつか汽車の中で言われた本田氏の言葉が身にしみる。「彗星の捜索はそれ一筋にやってもなかなか発見できるものではないのに、他の観測の片手間にやっても見つかるものではありません」と。そして大先輩の下保茂氏が、発見の条件として教えてくれたことは(努力+忍耐+チャンス)ということであった。彗星の観測に集中するとき、眼は自然と訓練される。従って堅忍不抜の努力を持ってチャンスの到来をじっと待つのである。私にとってComet Seki(1961f)の到来は正にその言葉の典型であった。
 先に元東京天文台のツァイス製の彗星儀について述べたところ、大阪の松本達二氏から、これに関連して興味ある資料が送られてきた。私が松本氏のことを初めて知ったのは1950年の春であった。その頃の「天界」に、神戸の海洋気象台の25cm屈折を使って、同氏が木星のスケッチを発表されていた。それはシーイングの特上の晩に描かれたものらしく、それまでの常識を破る様な克明にして見事な描写であった。その時、惑星の観測には如何に安定した気流が大切であるかを知ったのである。それはハッブル望遠鏡が捉えた惑星像を初めて見た時の感動と驚きに似たショックであった。木星と火星の観測に偉れた業績を残され、またテレスコープの研究者でもある松本氏のことは、大阪の原田氏と相談の上、小惑星6660番に"Matsumoto"と命名させていただいて私自身光栄に思っている次第である。
 さて、松本氏から送られた資料とは、ケーニヒ著(東條四郎訳)「望遠鏡と測距儀」のことであり、もう1つは戦前のツァイスのカタログのコピーである。この双方に、写真と図を使って詳しく解説されている。珍しい赤道儀であるとは前に述べたが、カタログによると倍率は最低27倍(実視野1°49′)から最高265倍(実視野10′)まで使用出来るようになっている。松本氏の記憶によると、旧東京天文台屈折と20cmコメットシーカーは、第1次大戦後のドイツの賠償金で購入したものであった(何かの本で読まれた)とかで、多分に裏話めいて面白いと思った。カタログは東京天文台に納入された同型のコメットシーカーと思われ、チャンとしたドームも付いている。余談になるが私は時々芸西の60cm反射鏡に同架されている20cm F12の屈折鏡でホウキ星の捜索をやっている。これは永いこと本格的な捜索から遠のいていたので、彗星に良く似た星団や星雲に対する感覚が鈍っている。いちいち星図を見なくてはならないことが多い。星図と同定するのが一苦労である。それが赤道儀ならチャンとデジタルで表示されるので実に便利である。しかし巨大な鏡筒に振り回されるので大変な重労働だ。こうして薄明の始まる頃観測を終えての帰宅であるが、途中でラッシュが始ることになる。私の場合自由業で午前中は多少休めるが、勤務を持っている人は大変だろうと思う。光害の少なかった高知市(自宅)の時代は実に楽園であった、とつくづく思う。(寝過ぎたか!)と思って、パジャマ姿のままおっとり刀(小型の鏡筒)で物干に駆け上がり、発見をやってのけるという特演?はもう遠い過去の夢物語となってしまった。



Copyright (C) 2001 Tsutomu Seki. (関勉)