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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第24幕 夢と現実の世界

 

 妙な夢を見た。ある日突然竹林寺の山本さんがスクーターに乗って駆け付けて来た。見るからに重そうな法衣を着た山本さんは息せき切って「関さん!オリオン座に彗星らしい天体を発見しました。ぜひ確認して下さい!」と持ち前の太い声で言った。景色は急に夜になった。物干しに上って9cmのレンズを向けると、そこにはかの有名な大星雲(M42)が白く輝いている。(なんだ!星雲ではないか?)と思って見ていると、大星雲は秋空の漂雲の如く急に形を変え始めた。そして見事な尾を引くホウキ星に変身したではないか!「アッ」と思って早く天文台に報告を、と物干しから降りようとすると、何と非常に高い所に居て、下から山本さんが呼んでいる。降りようとしてもおりられない。そんな時急に目が醒めた。(何だ、夢だったのか!)と思ったものの、私は山本さんの霊にとりつかれていると思った。
 そんな夢を見るのにも理由が無い訳ではなかった。高知に来た当初の山本さんは、若き僧侶として宗教にも天文にも純粋で白熱した闘志を燃やしていた。1956年頃の火星の接近の時には、極冠の消失前の最後の姿を確認し佐伯氏から褒められたこともあった。
 1957年頃から私の彗星観測の影響を受けたのか、彗星の捜索や観測に励む様になった。池幸一氏を交え"彗星3人組"として何かに活躍し、いづれ新発見という成果を挙げるものと信じていた。しかしお寺の後を継ぎ、高知県の名士の仲間入りをしてから、急に公務が多忙となり人との付き合いが多くなった。そんなことで天文への情熱が日に日に薄れて行くのは残念なことであった。彼が彗星を発見した夢を見たのも、山本さんへの期待が、そうさせたのかも知れない。山本さんのテレスコープはきっと家宝として大切に保存されていると思う。
 1970年代になって、私の物干し天文台にも変化が起こった。それは光害という問題が切実となり6つのホウキ星を発見した懐かしい物干し台と訣別の時がやってきたのである。当時の施設(9cmコメットシーカーと12cm双眼鏡、そして21cm反射赤道儀等)はすっかり芸西村に移転させることになったのである。移転がほぼ決まった芸西村の小山に池幸一氏と2人で視察に行った。とにかく暗かった。そのせいか30km以上離れた高知市の灯りが、やけに強く感ぜられた。池氏が得意の12.5cmコメットシーカー(苗村レンズ)で、西に傾きかけた双子座あたりの星を調べていたが「これは暗い、良く見える。芸西の低空が丁度わしの所の天頂くらいの見え方じゃのう」といつもの方言で言った(山本さんが元気だったらさぞかし喜んだであろうに??。)と彼の死を悼む気持ちになった。そして(彼の霊は私を慕って天文台について来るかも知れない)と、ふと余計なことまで考えてしまった。しかし杞憂と思っていたその考えが、現実?のものになろうとは意外なる展開であったと言わなくてはならない。

 戦慄すべき事件が起こったのは、芸西村に私の天文台が完成して間もなくのことであった。その頃コホーテク彗星というのが夕空に見えていて世界中の話題をさらっていた。何でも宇宙船の中から始めて観測されたホウキ星というのであるが、芸西の初の成果として、暁天に見えて来た同彗星をいち早くキャッチしたということで、スミソニアンのマースデン博士からお祝の手紙をいただいた。その後1974年になって初めての周期彗星(フィンレー彗星)の検出を行うのだが、その時使用していたのが僅か21cmF5の反射鏡(小島鏡)であった。この様な小さい鏡で発見できたのも、芸西の空が暗かったからにほかならぬ。かつての高知市の時代は、1950年代はそこそこ空が良かったものの、1960年代になって急速に街が繁栄し悪化が進んだ。夏の天の川はなんとか見えたものの、冬の銀河やアンドロメダ座の大星雲、それにプレセペの散開星団なんか殆ど肉眼で見ることが不可能であった。芸西に移ってからは、これらは勿論対日照光芒までありありと見え、写真撮影中もその光でカブリを心配するほどであった。観測中はよくテープで音楽を流していたが、浮き世を離れ、存在するのは星と私と音楽だけ、という素晴らしい別天地であった。今でもバッハのイギリス組曲を聴くと、当時の仙人風な生活のことを思い出してなつかしい。
 じめじめした晩春のある夜のことであった。少し晴れ間が覗いたのですかさず芸西の天文台へ走った。国道55号線であるが、高知市から室戸岬方面への道路は、まだ十分整備されてなくて至る所に難所があった。交通量も少なく、夜も10時を回るとめっきり車は少なくなり、1人で走っていると山賊にでも止められるのではないかと、心配するほどの淋しい田舎道だった。高知市を発して約20分で南国市を抜ける。昔は"後免"という小さな町で、私の祖父が怪火を見たところである。前に祖父から色々な昔話を聞かされたことを語ったが、今から遠く100年の昔、祖父はこの後免の町を1人で歩いて帰っていた。と暗い路上にポツンと青白い狐火?が光ったという。そのゴルフのボール大の怪火は、人が歩けばコロコロと転んで行く。停まれば停止する不思議な光で、急ぐと相手もどんどんと転がって行く。そしてついに人家の雨戸の僅かな隙間から暗い土間にひょいと転がり込んだというのである。祖父は不思議に思ってそうっと近付いて中の様子を伺うと、暗闇の中から急に大声が起こった。「うわーっ、びっくりした!大きな怪物に追われてやっと逃げて来た夢を見た」と叫んでいたという。いったい怪物とは何だったのか?自分(祖父)のことなのか。そして青い狐火は夢を見ていた人間の魂が徘徊していたのか???幼い頃祖父から聞かされた話だが、単なる怪談やら作り話とも思われない。そんな出来事まで思い出したくなる暗く淋しい国道なのだ。
 車がその後免町を抜けて間もなくだった。人家のまばらとなった。国道の脇で、1台のスクーターが私の車の通過するのを待って道路へ出ようとしている。通過した瞬間、私は見た!強烈なヘッドライトに一瞬映し出された人物は、まぎれもなく法衣をまとった山本さんだったのである。私の背筋を冷たいものが走った。ふだんは快活そうに、いつも大声で笑っている山本さんだが、時には宗教家らしく落ち着いた目でじっと人を見る。その冷静に光る目が、車の中の私を見つめていたのだ。(山本さんの亡霊を見た!?)アクセルに自然と力が入り、車は猛スピードで暗い国道を疾駆した。ルームミラーに、しばらく1点の光源が映っていたが、やがて闇の中に流れて消えた。

 それから時が流れて秋が来た。私は2階の日本間の書斎から南の空を眺めていた。遠く鷲尾山の空に白い雲が湧いては紺碧の空に消えて行く。そして、どこからともなく金木犀の香が漂ってくる様な穏やかな午後だった。突然「ごめんください!」と階下で大きな声がした。その声には聞き覚えがあった。私は(ハッ)として階段を降りると、何とそこには山本さんがにこにこ笑いながら立っているではないか!そばには令息らしい小学5〜6年生の子供が立っている。私は余りのことに声も出ず、へなへなとその場に崩れ落ちる思いだった。そんなことに頓着なしに、お客さんの口から次の言葉が走り、すべての謎が一瞬の間に氷解する運びとなったのである。



Copyright (C) 2001 Tsutomu Seki. (関勉)