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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第23幕 本田彗星の思い出

 

 本田実氏が今は幻の15cmコメットシーカーで発見された彗星の中で特筆すべき成果は、1948年12月に発見された本田・ムルコス・パジュサコバ彗星であろうと思う。周期が僅か5年余りの楕円軌道の彗星で、その後度々回帰して私たち彗星ファンを喜ばしてくれるのである。このホウキ星が1948年以前にアメリカやヨーロッパで強豪がひしめいていた18〜19世紀において、1回も発見されていないというのが不思議である。毎回けっこう明るくなる彗星なのだ。或いは摂動の影響で軌道が違っていたものであろうか。私は1954年の回帰(花山で三谷哲康氏検出)以来、ほとんど毎回観測してきた。1969年8月には、高知市の自宅でムルコス氏より3日ほど早く観測していたが報告が遅れた。そして1980年には芸西の60cmで検出のチャンスに恵まれることができた。
 しかし、この彗星にまつわる悲しい思い出がある。1990年の回帰のとき同彗星は暁天に明るく見えていた。いつか本田氏に撮影を依頼され、モノクロの写真をお送りしたところ、非常に喜んで下さったことがある。今回の回帰には芸西60cmでカラー撮影してお送りしようと思って観測したのである。そして早暁自宅に帰ってから思いがけなくも本田氏の訃報を聞いたのである。本田彗星の美しく輝く空の下、ご自分の発見した彗星に誘われて他界されたのである。ついに御生前にカラーの写真をお目にかけることは出来なかった。しかし、数日後の御葬儀に、私は、本田・ムルコス・パジュサコバ彗星の写真を胸のポケットに入れて参列したのである。
 私はよく倉敷の街を訪ねた。倉の白壁とそれを映した柳川の光景が好きで好んで観光した。そして足は必ず天文台に向かった。いつか秋の日お訪ねすると、本田氏は保育園の園児たちと天文台の構内で芋掘りをやって居られた。またいつかの夏の日、保育園をお訪ねすると、小さな園長室でじっと顕微鏡に見入って、フィルムの中から新星を探しておられた。毎晩の観測であるから写したフィルムは大変な数になる。こうして昼休みの僅かな時間にでも処理していかないと、大変なことになるのである。私は勤務していないから昼間は比較的自由である。しかしそれでも観測に追われて写したフィルムの現像や測定が1日で処理し切れないことがある。アマチュアで勤務しながら天体観測をやっている人は大変だろうと思う。単なる観望ならいざ知らず、本田氏の様に研究的な観測をやっている人は、後の処理に忙殺されるのである。
 芸西で発見した小惑星に“Kurashiki”がある。しかし私は最近倉敷市を訪ねることがめっきり少なくなった。美しい古都の白壁もそして芸術の町も、考えて見れば本田氏あっての倉敷であり魅力であったと思う。お会いすれば必ず星の話に花が咲いた。いつか2人で木曽観測所を見学した時の帰り、余りにも星の話に夢中になって、木曽福島の駅から反対方向行きの急行列車に乗ったことを思い出す。顔蒼さめた私に、本田氏は『関さん、こうなってしまったからには覚悟を決めましょうや。今まで誰にもお話したことのないとっておきの話でもしますからお許し下さい』と、まるでご自分の責任の様に言われて、彗星発見の思い出を話して下さった。列車は名古屋とは反対の松本市の方向に走っている。焦燥のうずまく中、本田氏は私の心を鎮めるがごとく珍しいお話をしてくださった。私は今でもあの時、列車を乗り違えてよかったと思っている。あの時の本田氏の貴重なお話は、この連載でも度々引用させてもらっている。“災い転じて福となす”とはこの様なことをいうのであろうか。その日遅く帰ってきて天文台に行き、お礼の電話をかけたら、本田氏も山(星尋荘)に観測に出かけられていた。(今日は旅から帰ったばかりで疲れているから・・)とか、或いは(来客があるので観測は休みましょう)とかいう理由は少なくとも通用しないのである。本田氏はどんなに忙しくても観測を最優先された。ここが私なんかの凡人と違うところで、世界に先がけて多くの新天体を発見する人の偉いところだと思う。よく(仕事が忙しくなったから天文は出来ない)云々という言葉を耳にするが、我々アマチュアにとって2重3重の仕事は当たり前のことである。それだからこそやり甲斐もあろうというもの。若い頃の友人で、(星よりも社会的地位の方が大切だから・・・)と言って天文をやめて行かれた人が何人か居た。それらの人は今どこで何をしているのだろう?と時々思う。私は社会的地位も無く金も無い風来坊である。しかし、一生星を見つめるという楽しさと心の豊かさを持っている。これで良かったんだと思う。私の場合はギター音楽が職業であるが、これは、ここからここまでやったらおしまい、といった類のものではない。常に情熱傾けて努力していないと落ちて行ってしまう。私は星とギターに自分の能力を2分しているのである。

 愚論はさておき、本田氏の15cm鏡の行方をもう少し追ってみよう。 時代は今から40年余り昔にさかのぼって1955年の春、ある雨のザーザー降るしけ模様の午後だった。母が呼びに来て「お前さんにお寺のお坊さんが訪ねて来てるよ」と言う。(はてな?私に坊さんの友人はいないが・・・)と思いながら出てみると、玄関に法衣を着た若い僧侶がにこにこ笑いながら立っている。そして大層快活に「関さんでございますか。私はこの度、高野山から竹林寺に就任して来た山本と申すものです」と、挨拶し、そして星が好きで高野山大学の時代から私に憧れていたという。よさこい節に

♪  土佐の高知のはりまや橋で
   坊さんかんざし買うを見た

というのがあるが、そのモデルとなったのが高知市にある竹林寺の若い僧侶だったのである。
 「はりまや橋でかんざしを買ったのは、あなたでしたか!?」
と私が冗談を言うと、彼は「わっはっは」と大声で笑った。このお互いの大笑こそ、それからの永い友情の始まりのあかしでもあったのである。私が24才、彼が23才のことであった。
 山本さんは惑星の観測者であった。竹林寺は標高200米の浦戸湾の入江に面した山にあるシーイングの良い所で、かれは15cmの反射経緯台を使って火星や木星を観測し、故佐伯恒夫氏と密に連絡を取って励んだ。勿論OAAの会員でもあった。また彗星の捜索にも熱心で、暇ある度にお寺の庭にコメットシーカーを据えて観測に熱中していた。彼は反射鏡の収集家としても有名で、15cm反射望遠鏡の他に大家から譲ってもらったという2枚の鏡面を持っていた。1つは口径21cmF8の反射鏡で、九州の薦田一吉氏(木星観測者として有名)から譲り受けたものであることが判明した。もう1台が彗星捜索鏡で15cmF6.3ということで、立派な経緯台(西村製)にマウントされていた。どちらも木辺鏡でコメットシーカーの方は、私も実際に星を覗いたがFの小さい割にコマ収差の目立たない良鏡であった。15cmF6.3という木辺鏡は、特殊な短焦点で、そう沢山存在しない筈である。これが誰の所有物であったか、結局たしかめることが出来なかった。なぜなら山本さんは火星の観測者として、そして、竹林寺の大黒柱として前途を嘱望されながら、35才の若さで病没されたのである。
 今思えば彼との思い出は尽きない。1957年には人工衛星の観測に奔走したり、或いは講演会に来られた山本一清先生ご夫妻を共に桂浜にご案内したり。そして1965年10月、池谷・関彗星が太陽コロナの中に突入した時、その観測隊に加わって須崎市のバンダの森に上がり、彗星の健在をたしかめた1人でもあった。私たちは1960年頃から池幸一、西山亮、そして私の3人で“彗星観測者3人組”というのを組んで何か事ある度に活動していた。しかし西山氏を交通事故で失い、その後釜として入ってくれたのが山本氏であった。しかし間もなく山本氏も他界されて、どうも“3羽烏”というのは縁起が良くない、というので解散してしまった。
 いつかの春の日だった。竹林寺を訪ねて、山本さんにお寺の仏像や宝物館の宝物の数々を見せてもらった。それらの国宝級の品々の中に3台の天体望遠鏡が大切に保管されていた。彼自ら家宝として取り扱っていた様子が伺えた。山の参道を下りる時山本さんが名残惜しそうに見送ってくれるので「もうここで良いですから」と断って石畳を歩いた。丁度つつじが咲き誇り、春の青空が拡がって美しい光景だった。しばらく降りてふと振り返ると、山本さんは50米ほど離れてまだついて来ていた。私が手を挙げて別れの合図を送ると慇懃にお辞儀をした。彼の視線を背中に受け、人に慕われることの有り難さをしみじみと感じながら山を下った。しかし、この日の山本さんの印象が最後のものとなってしまった。遠くで私に深々と頭を下げた。これは私との永遠の別れの挨拶であった訳だ。
 山本さんが去っても、しばらくの間は信じられなかった。1956年10月、私がクロムメリン彗星を独立発見したとき、誰よりも喜んで新聞をたくさん買ってきて友人に配っていた光景を思い起こす。彼が亡き後も、どっかの空で密かに私の成果を待ってくれている様な気がしてならなかった。私はいつも彼の霊感のようなものを感じていた。彼は僧侶でありながら成仏せず、魂はなおこの世に残って私のために尽くしてくれている様な気がしてならなかった。

 そんなある日、私の予感が具現したかと思われる奇妙な事件が起こったのである。



Copyright (C) 2001 Tsutomu Seki. (関勉)