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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第21幕 コメットハンターの手紙

 

 1948年の晩秋の頃だった。秋の県下の体育大会を控えて、私たちは校庭でのテニスの練習に余念がなかった。私はダブルの前衛で、ネットサイドに立って相手の後衛が打ってくる球を弾く。そのスピードは速い時で0.2〜0.3秒でネットの上を通過する。うろうろしているとすぐ股間を抜かれてしまう。全神経を集中して、電光石火の早業で相手の打球を叩き落とす。ボレーするのである。軟式テニスは風が禁物であるから、いつも放課後の風の収まった夕暮れ時に練習の多くを集中した。白球の見えにくくなった頃が絶好の条件で、ポーン、ポーンと球を打って校舎にこだまするその快い響きは、今でも耳の奥に残っている。
 とにかくたくさんの練習をやったので、飛んでくるすべての物がボールに見えた。昔、数人の刺客に襲われた剣豪が、最後の1人を切り倒した時、それは地蔵様であった、というエピソードが残っているが、私はテニスの練習を終わって、近くの電停に急ぐ巷の暗闇の中、スーッと飛んできたつばめをボールと思って、思わずボレーの構えをしたことがある。これも敵を見て間髪を入れず身構える武士の精神とつながるものがある。反射神経が発達するというか、今でもその神経は日常に生きている。車に乗っていて何かが突然狭い巷から飛び出して来た時、反射的に素早くブレーキを踏む。こんなことで事故から救われたことが何回かあった。

 冗談はさておき、そろそろ本題に入ろう。私がこうしてテニスに夢中になっていた高3の頃、星には全く関心がなかった。しかしテニスのおかげで、ある日星との出逢いが始まったのである。それは1948年11月の中旬であったと思う。その日は大会の前で特に練習が遅くなって、19時ごろ電車をおりて家に近い路上を歩いていた。するとある家の中から、ラジオのニュースを放送しているのが聞こえていた。ローカル放送らしかった。それは新しい天体の発見を伝えていた。何でも私の家のすぐ近く(新屋敷)に住む、山崎さんという土佐女子高校に勤める先生が、早起き体操のため鏡川の河原に向かう途中、土手の上から東南の筆山の空に、ホウキ星がうっすらと尾を引いて輝いているのを発見した、というニュースであった。本人はかなり星に詳しいらしく、コマの中の核の様子や、明るさ(2等星)、そして尾の長さも正確に角度で伝えていた。この星は同年の11月1日、アフリカ大陸で皆既日食中に発見されたEclipes cometで、その後カリブ海の上空を飛んでいたアメリカパイロットが発見し、俗に"マックガン彗星"と呼ばれたものである。おそらく山崎氏の発見は、これに次ぐ早いものであったと思う。この星の様子について当時、花山天文台の三谷哲康氏と樋上敏一氏が天界(301号、1948年、編集注11月13日5時撮影で、観測者は樋上・三上両氏となっているが、後者は三谷氏の誤りと思われる)に綺麗な写真を発表している。
 日本で最も早く発見した山崎氏は、それから13年ほど経って、私がComet Seki(1961f)を発見した直後に電話をかけて来られた。そして日食彗星独立発見の話しが出た。天文学は特に興味があり、「一度あなたのテレスコープを覗かせてもらいたい・・・」と話が進んだが、ついに来られなかった。氏の住む築屋敷町とは、鏡川に面した藩政時代の面影の残る有名な石垣の並ぶ通りで、竜馬が剣術に通った道場のあったことで知られている。つい最近犬をつれて散歩していると『山崎』と大きい門札の出たいかめしい石垣の家を見つけた。中から上品な白髪の老人が出てきて私と目が合った。(あのときの発見者はこの人だったかもしれない・・・)と思いながら暫く見つめ合っていた。もっとも思い出は50年も昔のものであるが。

 私がそもそもコメットシーカーを作ろうと思い立った発端は、この"日食彗星"が最初だった。もちろんテレスコープは無い。1945年の高知大空襲や、翌46年の南海大地震で街は壊滅状態で、そんなものが巷で発売されているはずがなかった。祖父の使い古した老眼鏡の玉や、机の抽出しから発見した虫眼鏡を使って、ボール紙の鏡筒の短い筒のテレスコープを作り上げた。まがりなりにも私の作ったコメットシーカー第1号であった。それは1948年11月15日頃の午前5時半頃ではなかったかと思う。2階寝室の南側の雨戸を一枚開けて、パジャマ姿のまま東南の地平線上を見つめた。名月で有名な筆山がどーんと横たわり、その上に可愛らしいからす座が光っていた。そのからすの四方形のすぐ南に日食彗星は堂々と横たわっているはずであったが、悲しいかな素人の眼。ついに大彗星は私の眼界に入って来なかった。星は見えず、夜風の冷たさと星の美しさのみが残った。
 続いてこの年の12月上旬、当時広島県の瀬戸村に住んで居られた、本田実氏が新彗星を発見され報道された。有名な"本田・ムルコス・パジュサコバ彗星"である。本田氏のこの発見は、口径15cm F6.3の反射式コメットシーカーを使用された。15cmの木辺鏡として、1947年11月の発見に次ぐ2度目のものである。この15cm木辺鏡は現在行方不明になっていると聞くが、この鏡面によって2個の新彗星が発見されたと信じている。戦前にフレンド・リース・本田彗星(1941V)の発見が存在するが、これは別の器械(例えば、口径10cmの坂本鏡)ではないかと思う。

 私が本田実氏に初めてお便りを書き、御指導を願ったのが1949年の春であった。発見者として世界に冠たる本田実氏に手紙を書く。それは当時の青二才の私に少なくとも大きな決断と勇気を必要とした。本田氏から返事がもらえるかどうか、それによって私の人生が変わったと思う。私の人生の大きな分岐点でもあった。初めて質問する人間の当然の礼儀として、返信用の封筒に切手を貼り、自分の住所氏名を書いた。そして便箋まで同封して送ったのである。1週間が待ち遠しかった。日常公私共に多忙なはずの本田氏は、私の用意した封筒類は一切使わずに、全く新しい便箋と封筒に、自分で切手を貼って実に懇切な御返事を送って下さったのである。何と心の優しい先生であったろうと思う。爾後十余年間、如何なる苦境に立っても、本田氏の暖かい激励を忘れることが無かったのである。(1通の手紙が人間の運命を決めた!)そう思って私はどんな小さな質問の手紙にも、返事を書き続けているのである。それは本田氏から教えを受けた、天体の発見以上に大切な私の義務であると思っている。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)