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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第20幕 天才と凡才そして私

 

 1955年5月、大阪に於けるA・セゴビアの演奏会は翌日の大阪朝日新聞に”3000人の聴衆を魅了”「永遠に若き天才」と写真入りで報じられた。演奏会が終わっても、余りにも大きな感動と楽の音の余韻がいつまでも心に残って、私はただ呆然としてホールの片隅に立ち尽くしていた。翌日、列車で帰りながらも、セゴビアの残像が何時までも頭の中にこびりついて離れなかった。
 ”天才セゴビア”それは不断の努力によって支えられた天才であった。私は時々思うことがある。何事にも天才と言われる人間は才能+努力によって成就されるもので、もし天才と言われる人間から努力を取り去ったら、何も残らないのではなかろうか?と。何事にも人のトップに立つことは大変なことである。どんなに才能に恵まれていても、それだけでは駄目、毎日の不断の努力が必要なのだ。まして外国からやって来て大きいステージに立って人前で演奏する。曲を暗譜するのでさえ大変なのに、少しのトラブルもなく聴衆を感激させるほどの演奏をする。これには想像をはるかに絶するほどの努力と時間とを傾倒しているのである。その一端がセゴビアのホテルでの練習振りから伺えるのである。
 旧ソビエト時代の或る有名なバイオリニストが日本に演奏に来て、毎日ホテルで7時間演奏した、と言って関係者をびっくりさしたことがあるが、これなんか当たり前のことであろう。私の友人で天才である、ということを豪語しながら全く練習しないギタリストが居たが、このような人で成功した例はない。大成するも失敗するも、その人間のしっかりした自覚と努力が大きな比重をしめていることが分かる。そして大切なのは偉れた人間性と謙虚さである。どんなに才に恵まれ努力を怠らなくても、人格が伴わなくては成功しがたいと思う。セゴビアの様な天才ギタリストは、これら3拍子揃った稀に見る逸材なのである。
ギターという楽器は紀元前からムーア人によってスペインに伝えられたと言われている。楽器の中でも大変古い歴史を持つ。また他の楽器の扶けを借りないで演奏出来る独奏楽器である。かつてベートーベンは「ギターは小さなオーケストラである」と言ったが、これは有名な言葉である。あらゆる独奏楽器の中でギターが最も完全楽器に近いと言われているが、これらの事情の判る人は音楽を良く解した人であろうと思う。
 私とギターとの出逢いは、高校生だった1947年頃で、ちょうど本田彗星(1947n)と出逢ったのと同じ頃である。この頃、天文の方も全くやっていなかったので星もギターも同じ頃好きになりスタートしたのである。
 私は学業はそこそこ人についていったものの、芸術やスポーツには全く才が無かった。高3の頃には庭球部に入ってたびたび大会にも出たが、人並みに上達せず典型的な凡才であり鈍才であった。こうした才能のない人間に残された道は、唯一つ、人一倍の練習に熱中することだった。私は他人に数倍する練習を積み、やっと人の後ろについていくタイプの人間だった。人が1やるのだったら2やった。3やるのだったら6も10もやって対抗しようとした。しかし生まれつきの精神力の弱さもあって、折角多大の練習を重ねても、本番では実力の半分も発揮できずに敗北することが多かった。深夜小高坂山の墓地(昔、師範学校の寮での怪談の発祥の地)に行って座り込み、修業したことも今では懐かしい思い出である。ギターを弾いても多大の練習量を積み重ねてやっと人についていくというのが私の信条である。
1947〜1948年の一連の”本田彗星”で彗星に興味を持ち、1950年からコメットシーカーをひっさげての観測が始まった。何をやってもうだつのあがらない私であるから、そう簡単に発見できるとは思えなかった。
 ちょうど朝鮮の動乱の始まった不安な世界情勢の中であったが、とにかく頑張った。明けても暮れても捜索のことばかり考え、他のことは全く映らないすがすがしい20才だった。1945年の大空襲と1946年の南海大地震で廃墟となった街の空は暗く、天体観測には絶好であった。口径10cmばかりの小さなコメットシーカーを操って、人間に許されるだけの努力を傾倒した。しかし生まれつきの運の悪さも災いして、チャンスは容易にやって来なかった。その間、多くのライバルも居た。今はリンカーン天文台を中心に大径鏡+CCDによる掃天が盛んである。その成果を見て(もう駄目だ!)と大いに悲観する人を見かけるが、これは眼視捜索にとって大して影響はないのである。たしかに太陽に近付いて来る彗星が遠く(衛のころ)で発見されてしまうのは痛いが、それとて完璧なものではない。中には太陽のあちら側からひそかに接近して来て、急激に増光する彗星もある。彗星の発見が一生に一度のチャンスだと考えたとき、必ず1度や2度の良き機会はある筈である。手持ちの双眼鏡で発見したと伝えられるC/1999 N2(Lynn)なんか、その良き例ではないか!私の時代にはリニア彗星は無かったものの、アメリカには有名なペルチャー氏が健在で、イギリスにはオルコック氏が居た。そして日本には大御所たる本田実氏が大いに活躍されていたことは周知の如くである。チェコのスカルナテ・プレソ天文台では、海抜1400米以上という理想の場所で、ベクバル台長を始めとし、鋭眼で鳴らしたムルコスやパジュサコバ氏らが、新鋭の広角双眼式コメットシーカーを駆使し、太陽(特に東方)の界隈を強力にパトロールして多大の成果を得ていた。考え方によっては、今のリニア計画による捜索より、私達にとって遥かに強敵であり脅威だったのである。
 私の言いたい事は敵を恐れてひるんだり、或いは理屈をこね回すよりも、先づ最大の努力をして目標にぶつかって行くことである。そして例え独立発見でも良い。なんらかの形で成果を挙げて世にアピールして欲しいのである。相手を恐れ、常に不安を背負った中途半端な努力では仲々成功するものではない。
 コメットハンターにとって、家族や周囲の人たちに理解があれば幸せだと思う。私の頃は時代のせいもあって、天文というものが親や兄弟にも、そして近所の人たちにも全く理解されなかった。経済的な援助もなく、反対を押し切っての、正に孤軍奮闘の10年間だった。しかし冬の寒さは更に大敵であった。今と違って南国土佐と言えども真冬は氷点下になるのは常識であった。中にはマイナス7度の激寒の中で、ろくに暖房もなく、心身共に凍える思いをして頑張った。屋根瓦からすべり落ち、凍結した大地に叩き付けられて失神したことなんか、今思えば良くがんばったものだと我ながら感心するのである。若い頃の苦労は何でもないと思う。成功すれば苦しかったことも悲しかったことも、懐かしい思い出に一転するのである。
 青春を謳歌したホウキ星捜索の日々。それは私の人生で最も充実した輝きある時代であったと思う。人間として生まれたからには、何かの業績を遺したい。少年の頃からの夢は、そして理想は今も心の中に燃えたぎっているのである。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)