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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第19幕 星とギターの魂

 

 高知市に"地球33番地"という風変わりな場所がある。高知市のほぼ中央を東西に流れる江ノ口川は、高知城の北側をお堀の如く捲いて流れ、最後に浦戸湾に注いでいるのだが、その途中、有名な播磨屋橋(はりまや橋)を1kmほど東に流れたところで土手に奇妙な形をした塔が建っているのである。
これは、たまたまこの付近が東経133°33′33″、北緯33°33′33″の交点というので、今から40年ほど昔、高知のロータリークラブが記念碑を造って高知市に贈ったものである。この様に縦にも横にも"3"が並んだというだけで、格別意味も歴史的理由もないのだが、特に私にとって忘れられないのは、この塔のすぐ近くに、塔の番人の如く一人の友人が住んで居たのである。

 その友人の名を仮に"仙人のYさん"と呼んでおこう。彼は名刺に「地球33番地」と書いている。Yさんは一口で言うと、今の社会から完全にはみだしたアウトサイダーである。車にも乗らず、市内を自転車で走り回って気の合った友人を訪ねる。そして昔から好きだった詩を書き続けている。それも私の様な凡人には、およそ難解な変わった詩であり文章なのだ。Yさんは立派な学歴を持ち優秀な成績で、ある大新聞社に入社した。何事にも忠実で決して安易に他との妥協をしなかった。同時に入社した同僚の一人は常に上役の目を気にして機嫌を取り、自己を偽ってまで社の方針に同調し、社長の気に入る様な保守的な記事を書いていた。しかしYさんは頑として自己を失わず自分の思想を押し通した。そして紙面に詩を書いた。そんなわけで至る所で衝突や上とのトラブルが絶えず、折角の立派な記者としてのスタートを跪いたのである。退社してからも文筆活動はやめなかった。彼の記者としてのモットーは真実を正しく伝えること(新聞には余りにも虚飾が多くまれには真実が曲げられている)。そして文学者としての卓越した目と文章によって彼自身の思想を読者に伝えることであった。そこに記者としての喜びがあり夢があった。彼の文は詩の様に美しく生きていた。事件の核心をついていた。そして良識ある読者にアピールしたのである。
 1961年10月、私が初めて新彗星(Comet 1961f)を発見したとき、まっ先に駆け付けてくれたのが小さな新聞を自ら発行しているYさんだった。私の語る一言ひとことに彼は「ありがとうございます」と感謝しながらペンを走らせた。彼の文章は聊かの誇張や虚飾もなかった。そして私の言わんとするところを忠実に伝えていった。彼自身のユニークな感想文も多くの読者に感銘を与えたのである。
 私は時々思う。偽りだらけの生活の中で人生の終焉を迎えたとき、自分の人生を振り返って果たして満足だったと思うだろうか?例え恵まれない環境の中に置かれながらも、自己の信念を貫き正直な道を堂々と歩んできたY氏は、きっと充実し、ほのぼのとした人生を振り返るだろうと思う。或る意味では最も幸せな人だと思うのである。

 そのYさんがつい先日33番地から自転車にのって飄然と訪れた。苦労が多く頭は白髪、社会の醜悪を睨む眼光は鋭い。しかし私と合った瞬間「やあー関さん!」と実に柔和な眼差しに変わるのである。
 星の話、文学の話、そして人生の話。お互いに美しいものを見つめて人生を渡ろうとする心と心は時には哲学めいた世界に話がはずむこともある。古い作家、吉田絃二郎氏が「世の中には悪がいっぱいで、まともに生活していると窒息しそうだ。しかし唯一人の善人が居る限り自分も善人でありたい」という意味の文章を書いていたが、Yさんと会っていると世間の醜悪や矛盾は忘れ本当に善人になった様な気分になるから不思議である。Yさんはいつも尊敬の念を持って私を見ている。そして必要以上に私を評価している様に思う。
その彼がこんな名うたを作ってくれた。
   "名うた"欣呈
-その健寿を念じつつ-

 ゴビアの愛のトレモロ
 らぼしの恋のときめき
 らなりよ貫らぬきよ
 きところに年知らに
 が夢中むし無双
    ※それぞれの頭文字が私の名になっている

 詩人の発想は全くすばらしい。何の関係もないと思われる違った次元での出来事が、彼らの頭の中ではちゃんと最もらしく結ばれているのである。セゴビアと星。それは一見何の関係もない存在なのだ。しかし小惑星(3822)Segoviaが存在する。

 セゴビアとはスペイン生まれの天才的ギタリストのことである。"天才"といえば聞こえは良いが、彼は独学で和声学と奏法を学び努力の結晶としての天才ギタリストの名を得たのである。
 私が初めてセゴビアの演奏会を聞いたのは1959年、中之島のフェスティバルホールであった。プログラムの冒頭で、演奏されたヴィンセント・ガリレイ(ガリレオ・ガリレイの父)の組曲は意外であった。曲目はバッハのガボットにハイドンのミヌエット。メンデルスゾーンの無言歌にアルベニスのセビーリアと、彼の得意とする曲を次々に演奏し、最後にアンコールに応えたのが"愛のトルモロ"アランブラの思い出だった。
 私はこの日までセゴビアのことを天才とばかり思い込んでいた。事実彼の発想は天才的でテクニックには寸分の乱れも無かった。天才とは神が作り与えてくれるものであって、本人の努力のことなんか全く忘れていたのである。
 その夜、たまたまセゴビアと同じホテルに泊まっていた私は、会が終ってから彼の部屋を訪ねようとした。永年、夢にまで描き続けてきた大セゴビアの演奏が聞けた感激の余り、彼のサインが欲しかったのである。出来ることならあの妙音をはじき出す彼の手と握手したかったのである。プログラムを持って緋色の廊下を歩いていく時意外なことが起こった。彼の部屋が近づくに従って幽かではあるがギターの音がするのである。たしかにギターの音色である。それがうまく弾けないのか、まるで普通の練習生がやるように同じフレーズを何回もくりかえして弾いている。これがあの大セゴビアだろうか?私達と全く同じではないか!私は自分の耳を疑った。たった今、日本での最初の演奏会が終ったばかりである。ふつうならゆっくりと風呂にでも入って体を休め、浩然の気を養っていてもよいはずである。それなのに、彼はすでに次の目標に向かって猛然と練習している。天才セゴビアの本来の姿を垣間見たような気がしたのである。(セゴビアもやはり普通の人間だった。天才とは努力によって築かれたものだったんだ!)。私は薄暗い廊下に佇んだまま、いつまでもセゴビアの奏でる音色に耳をすましていた・・・。

 私がコメットハンターの池谷さんに初めて会った時もそうだった。1963年から連続5年間の発見は誠に驚異的だった。遠くから人の業績を眺めていると、如何にも簡単に発見をやってのけているように見える。そして彼は運が良いのだ。とか天才だから・・・などと考えて肝心の努力のことを忘れているのである。しかし実際に会ってみると彼の捜索は何者にも頼ることのない独創性に富み、そしてその業績は不運と血の滲む様な努力と忍耐の結果であったことが分かる。年期では先輩だったはずの私より遥かに多くの充実した時間と努力を傾倒していたのである。池谷さんのほかの何人かの成功者に会ったが、この考えは聊かも動じなかった。
 A・セゴビアの演奏会から35年の歳月が流れた晩秋のある日神田のある楽器店を訪ねた。そこには、かつてのセゴビア愛用のギター「ラミレス」が展示されてあった。私は(これが欧米諸国で数十年の長きに渡って多くの聴衆を魅了した楽器か)と思って興味深く眺めた。百戦錬磨を想わす様に表面板は茶褐色に変色していた。多くの傷があった。手に取って弾紘してみた。しかし古色蒼然たる楽器は弾き手が主人公でないのか鳴ってくれなかった。不思議に思って中のレッテルを見てみた。たしかに1955年作のLamilesのサインがあった。1959年の大阪での演奏会では銘器ヘルマン・ハウザーが使用された。その直後かれの愛器はスペイン製のラミレスに替わったが、決して鳴らない筈はない。その後レコードであるが数々の演奏を聞き一層の美しい音色と迫力に感動していたのである。しかし流石の銘器も、セゴビアという名手を失ってから鳴らなくなったのだ。やはり大切なのは楽器ではなく弾き手であり使い手なのだ。セゴビアが健在でいつまでも弾き続けていたら、この楽器もきっと良い音をだし続けていたであろうに・・・。

 天文の世界でも同じことが言えると思う。折角良い天文台が出来、大きい望遠鏡が座っても使い手がいなければ名前だけのものになってしまう。天文教育や単なる観望だけなら大口径鏡はいらない。最近国内ではあちこちで競って大口径鏡が建設されるようになったが、これは確かに太陽系の天体を捜索している我々にとって驚異である。しかし大口径鏡ができたと聞いただけでは少しも怖くない。しかし良い使い手が出た時は怖い。なぜなら偉れた使い手は比較的小さな器械でも良い仕事をするからである。大切なのは使い手である。そして努力なのだ。これからは、いたずらに大口径にこだわるのではなく、良い観測者を養成し、獲得することに力を入れるべきではないだろうか。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)