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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第15幕 ”荒城の月”幻想曲

 

 有名な『荒城の月』の作曲家”滝”が小惑星(8877)として登録されたことはすでに紹介されたが、続いて彼の代表作”荒城の月”が(8957)として正式に命名される運びとなった。いずれも芸西での発見である。
 歌曲”荒城の月”は1901年、滝が音楽学校の学生のとき、有名な土井晩翠の詩に作曲したもので、発表された当初はメロディだけだった。それにピアノの伴奏を付け、また拍子や旋律の一部に手を加えて、詩の内容にふさわしい曲として完成させたのが山田耕筰であったと伝えられている。
 山田氏は、この曲をフラット3つのハ短調として編曲したが、原調はイ短調であり今でもAマイナーで歌われることが多い。しかし、この曲ほど日本人の心にしっかりと染み込んで郷愁を誘う曲は少ないと思う。余談になるが山田氏の弟子にT氏という作曲家が居り、私はその人の教えを受けた。

 ”荒城の月”についての思い出やエピソードは多いが、古くは明治38年(1905年)日露戦争が終わって、乃木稀典とステッセルが水師営で歴史的な会見を行ったとき、乃木将軍が余興としてその席上で歌い、ステッセルから『あなたの国にもその様な素晴らしい歌があったんですか!?』と褒められたと言うエピソードが残っている。その見返りにステッセルから白い名馬が贈られた話は有名である。また日本を代表するオペラ歌手の藤原義江が、アメリカや故国ドイツで歌って絶賛を博したことも知られている。
 私が幼い頃、善通寺の第11師団の砲兵だった父から良く聞かされた。第4小学校の時代に音楽の得意だった岡本先生が、愛唱歌の1つとして私たち学童に聞かせて下さった。中学校のときの音楽会で、国語の先生が自慢の喉を披露して人々をびっくりさせたのも”荒城の月”であった。背景には、常に戦争色がちらついていたが、この曲から受けるイメージは、いつもロマンティックで平和なものであった。
 ところで作曲家の滝が育った竹田市の古城”岡城”が彼の作曲のモデルとなったと伝えられているが、一方作曲家の方では土上氏の故郷に近い、仙台市の青葉城が詩の基礎になったと伝えられている。更に最近になって知ったが、会津若松の”鶴ヶ城”もそのモデルの1つといわれている。多少余談になるが3年程前、私のギター教室にOさんという女性が通っていた。彼女は、この教室では女性として自分が1番上手だと自負していたという。ところがある日教室に来てみると先輩格のMさんがアルベニスの”マジョルカ”を弾いてレッスンを行っていた。その旋律の冴えに大変なショックを受けたという。のちOさんは夫の転勤によって関東地方に去ったが、そこで小惑星に”滝”と”荒城の月”が命名されたことを知って、お祝いにとわざわざ会津藩の酒を送ってきた。”明月鶴ヶ城”のことはそのとき初めて知ったのである。

 しかし、”荒城の月”にまつわるエピソードはまだある。(また愚説か!)といわないで、どうか私の新説を聞いていただきたい。その名は”高坂城”である。昭和17年〜21年ごろの私の通っていた旧制中学は、明治26年の創立であったが、 〜黒潮寄せ来る南海高知......で始まる校歌は、その第2章が、
 筆山吸江ちかくに在りて
 明朗われが環境うれし
 至誠を奉じて不断の励み
 学業酬国われらが理想

となっている。何しろ古い時代のことで大方は歌詞も忘れたが、その終章に、
 市街に聳ゆる高坂城は
 正気溢れる維新の砦

と言った作風であった様に思う。校歌に高坂城が出てきたのは私たちの学校名にお城の名が使われていたからである。この校歌を作ったのが何と土井晩翠であり、氏の最後の作詞となっているのである!そして作曲者は不明。ここにミスティーリアスな空想が浮かぶのである。しからば何で土井氏が辺鄙な田舎の校歌を作詞し、いったい誰が作曲したのか?それは謎である。このナゾは永久に解けないであろう。なぜなら学校はとっくに消え、関係者もことごとく物故したからである。ただ1つ判明していることは、土井晩翠氏が戦前(明治-大正のころ)度々高知県を訪れ、文化講演会を開いたことがあること。詩の中に登場する”高坂城”とは、高坂山の上に立つ高知城のことであり、土井氏は維新の資料の豊かな高知県に何度となく足を運んだ。当然彼は土佐24万石、山内容堂の元居城を訪れたと考える。その古城散策の中から”荒城の月”のイメージが心の中にたくわえられたのではあるまいか?!これは1つの発見であった。

 徳川家最後の将軍慶喜は、新しい思想を好み、大政奉還に積極的だったと伝えられる。一方坂本竜馬らの意見を尊重し、それを幕府に進言したと伝えられる山内容堂も、また新しい時代に即応して、早くから西洋の知識を取り入れ、新時代に遅れまいとした。山内容堂公の天体望遠鏡で、私がハレー彗星を観測した話は、すでに語ったところである。山内家の倉には、今でも私たちの知らない当時の文明の器具や資料がたくさん眠っているのである。
 桜も散りかけて大方は葉桜となった4月中旬の満月の晩、高知城のほとりを歩いてみた。”春宵一刻、値千金”と言うが正にそのとおりの光景だった。明るい林の道も暗い森の中も洪水のような月光に溢れていた。
 春高楼の花の宴
 めぐる杯かげ射して.....。

 名曲が自ずと私の心から溢れ出した。古い石垣の続く道はボーッと白く烟り、昼間見る2倍も遠くに見えた。月は樹齢100年を越すと思われる巨大な老木の梢にあった。静寂な空気を破ってふくろうが鳴いた。桜が散った。また鳴いた。また散った。錯落たる木立の影を踏みながら歩いていくと、かつらの絡んだ石垣の向こうから、頭巾を冠り薙刀を持った武士が歩いてきても不思議のない光景であった。やがて暗い石垣の道を抜け、広い二の丸の花壇に出た。空が急に明るさを増した。黄金色の夜空に黒いシルエットとなって浮かぶ天守閣を見上げながら、(荒城の月の名詩はここから生まれたんだ)と私は一人心に言い聞かせていた.....。
  



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)