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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第11幕 大口径とコメットシーカー

 

 2月7日に再び徳島県那賀川町の天文台にやってきた。2月12日の天文台のオープンに先だって、全国から集まってきた天体写真の審査があったからである。約100点の応募作品の中から最優秀作を1点、そして何点かの入選作を選考するのだが、こうも選り抜きの優れた作品が並ぶと実に苦労する。入選・落選の差は紙一重であって、もし逆転してもおかしくないからである。
 選考の基準は、第1にモチーフが確かなこと。第2に作品が美しいこと。第3に学問的価値と、それらを重視して選んだが、私は原則として作者の名前を見ないことにしている。なぜならもし有名な天体写真家が出品したとすると、それが駄作でも、どっか良いところがあるはずだと、それに重きを置いてしまうからである。写真に限らず絵画にしても、書道にしても作者を見ずに審査したら、また違った結果が出て面白いと思う。選考を終えてつくづく思ったが、展覧用の大伸ばしは、35mmサイズに比べて中判が絶対に有利である。それに10年ほど前、松山市のプラネタリウムで審査していた頃に比べて、フィルムが格段に進歩していることである。どこでも良く見かけるような、平凡な天体写真ではなく、何かモチーフの斬新な、また意表をつくような作品を期待していたが、幸いそうしたユニークな作品が何点か見られたことは幸いであった。
 約2時間の審査の後、徳島県の天文愛好家の方々とのミーティングがあり、少時間ではあったが楽しい有意義な時間を過ごすことができた。
 同夜は幸運にも晴れ、シーイングもまずまずの好天とあって、オープンに先立って有志のみによる天体観測会が開かれた。113cm鏡は有効最低倍率が得難いという、大口径共通の悩みはあったものの、鏡面の研磨は確からしく非常に良く見えた。同夜は9mの大ドームの中に十数人が集い、まず木星土星の惑星を始めとし、リゲルの伴星、オリオンの大星雲、ウイリアムスとヤゲルの2つの新彗星を見た。土星の伴星は5つまで確認できた。同架せる25cm屈折(ロシア製)が以外と安定した良像を示した。口径が大きくなると、どうしても実視野が狭少となり、30’以上拡がった散光星雲や星団の類は入らなくなる。ここで予想外に活躍したのが、私の持ちこんだ口径88mm(19×)のコメットシーカーである。大口径では全容をつかむことのできなかったプレセペやスバル、それに北の2重星団にオリオンの散光星雲等を、大口径を覗く人々から特に好評を得た。
 幽遠な島宇宙の幾億年の光芒に酔った人たちを、コメットシーカーはまた異なる広漠たる星の世界に導いたのである。それはコメットハンターのみの知る超広角の夢の世界なのだ。そして、この国産最大級のミラーと世界最小?のコメットシーカーのレンズが、同じ作者による作品だと言うことも偶然ながら当夜の面白い話題の1つであった。
 その夜は近くの阿南市のホテルに泊り、翌朝徳島市に向かった。天文台から徳島市まで車で30分足らず。人口30万人以上の都市の近くに在って、まず一般観測に差支えない程度に空が暗いのが良い。いくら空が良くても交通が不便ではわれわれアマチュアには向かない。芸西が少々空が悪くても通うのに便利だから、そこそこ観測が続けられるのである。

 私が徳島市に向かった理由はただ1つ、海野十三の生家を見たかったのである。前にも述べた『火星兵団』は私が幼少期に初めて出会った科学空想小説であった。そして海野が、晩年手がけてNHKのラジオで放送された『まだらの紐』(原作はコナンドイル)は、探偵小説の面白さを教え、私をして、その境地に引きずり込んだ作品だった。それ以来コナンドイルは勿論、クリスティやアラン・ポオ。更に日本の乱歩に清張の作品まで読みあさった。日本ではこの2人の先輩格に森下雨村や黒岩涙香がおり、どちらも高知県の人。涙香はいささか天文学と関係があって(芸西天文台の近くの出身)、いずれ後で述べるチャンスがあろう。
 徳島市の城山公園で、まず海野十三の文学碑を発見した。大きくて立派な大理石に、海野を日本の草分け的な推理作家として称えた江戸川乱歩氏の紹介の文があり、その後に海野氏自身が『人類は科学の恩恵に浴しつつも、その発展による恐怖に脅かされつつある。.....(中略)。恩恵と迫害との2つの面を持つ科学時代に、科学小説がなくていいであろうか』という意味の言葉が刻ってある。海野氏が亡くなったのは1949年。人類の多くが原爆投下や水爆実験の恐ろしさにさらされていた時代だったのだ。
 安宅1丁目の海野氏の家はなかなか見つからなかった。極近くまでさしかかりながら界隈の人の多くは”ウンノジュウザ”の名はまるで知らなかった。小説の中ではあるが、誰よりも早くロケットに乗って火星に旅した男海野。”宇宙船から見る地球は青かった!”とガガーリンよりも早く唱えたと言う偉大なるSF作家の海野。半世紀も経てば、彼の名はもう地元でさえも忘却されてしまったのか!?リヤカーがやっと通れるくらいの狭い路地裏を幾度か徘徊し、ようやくそれらしい家を発見したのは夕闇の迫る午後の5時頃だった。大きい板の標札の字は完全に消えて、かすかに”三”の文字が判読できた。家は海野十三ゆかりの人たちが公開しているらしく、かんたんに中を見学することができた。古い門の中によく手入れされた庭があり母屋の戸をそっと空けると何か陰惨な感じのする暗い6畳ばかりの和室がある。修繕を重ねたふすまを開けると、そこに4畳半ばかりの狭い書斎らしい部屋があった。古い座り机がひっそりと眠っている。海野氏はここで生まれ、やがて上京して執筆活動をした。しかし敗戦後の何年かはこの家に帰って生活したのではないかと思う。もしかすると執筆活動をしたかもしれない机。この机の上から多くの名作が生まれたのだろうか?ああ少年の頃憧れし海野十三。私を未知なる大宇宙に誘ってくれた十三。思えばあれから半世紀以上も経って今私は彼の机のそばに立っているのだ.....。かつて文豪森鴎外の書斎を見たことがある。そこは豪華な家具や飾りは一切なく、僅かな明かりのもれる小さな窓と極度の質素と生活の厳しさが影を落としていた。そして海野の部屋にも同じような貧しさが感じられた。この極度の貧困と厳しさが、彼らの良い作品を生む基盤となっていたのではないだろうか?とふと思った。貧困と苦しみの耐乏の生活の中から、彼らの強靭な精神が培われて行ったのではないだろうか。海野十三の生家を後にしながら、私の頭の中はめまぐるしく回転していた。そして言い知れぬ寂寥(せきりょう)が私の心の中に忍び込もうとしていた。
 私が天体観測を始めたのは、自作の機材と物干し台の上と言う極めて恵まれぬ施設であった。小さなコメットシーカーに頼り、実際に多くの成果を挙げたのはこの物干し天文台時代だった。いま恵まれた設備とドームの中でいったい何をしているのか。生活の便利さと楽な観測姿勢が、自分の心を怠慢にしているのではなかろうか?私のみならず時代社会の華やかで裕福な生活環境が、人の怠慢につながり、若い人々の健全な心の発育を阻害しているのではなかろうか?と愚考かも知れぬが、海野十三の生家の訪問は、私自身への反省となった良い機会だった。

 (次回はこの海野十三の傑作”火星兵団”の謎を追求します。)
 



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)