記事タイトル:古墳の天文図 

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お名前: 岡本一郎   
6世紀から7世紀の大和で見える彗星と日食について教えてください。
[2005年4月30日 18時43分41秒]

お名前: 石川 大介   
キトラ古墳の天文図は、黄道が左右逆に書かれていたりするなど、わりと不正確で、
描いた人間がその意味を分かっていなかった可能性が高い、とされているようです。

もしかしたら、描いた人が「このあたり、明るい星が少なくてバランスが悪いなぁ」
などと考えているところに、突然この群の彗星が現れたのを見て(この群でなくても
良いのですが・・・)、「ちょうどいいから、この場所に書き込んじゃえ!」なんて
考えたのかも知れませんね。(かってな想像ですが)

もしそうだとしたら、この星に尾が描かれなかったのも、けっして不自然ではないでしょう。
長谷川先生の論文見てみましたが、その中に挙げられていたものだけでなく、クロイツ群
彗星はその多くが、明るさの割に目撃期間が短いようですし。
[2004年7月31日 10時12分35秒]

お名前: 上原 貞治   
石川様、こちらこそ、まったくすばらしいお説をありがとうございます。

 もう一度、朝日新聞夕刊(7/12)に出た大きいカラー写真を子細に見てみましたが、
どう見ても尾は描いてありませんでした。その星のへんは、しっくいが白くきれいに
残っております。
 しかし、壁画を描いた人が実際に彗星を見たというわけでもないでしょうから、
ここは尾が描かれてなくてもいいことにしましょう。

 壁画の星図で、オリオン座のすぐ右下に描かれているのが、下にも出てくる
「天苑」だと思います。位置は東に寄っているようですが、形に特徴があるので
間違いないでしょう。そうすると問題の星は、天苑の右にぽつんとあるので、
やはり「土司空」(デネブカイトス)のようにも思えます。しかし、さらに
右の星群は、「天倉」(くじら座の胴体)のように見えるので、これでは、土司空
との東西関係が逆になります。これらの西には、室宿、危宿、虚宿(ペガスス座
〜みずがめ座)と並んでいて問題ないように思います。

  星座を見慣れた方々のご意見を伺いたいと存じます。
[2004年7月30日 7時23分58秒]

お名前: 石川 大介   
クロイツ群彗星の遠日点がオリオン座の方向にあって、
冬に近日点を通過すると、ちょうどその辺を通過するなぁ、という思いつきでした。
実際に、それに該当しそうな天体が存在していたとは、わくわくしてきます。
たしかに、尾を描いてくれれば、分かり易かったでしょうに・・・

上原様、いつもありがとうございます。
[2004年7月29日 12時45分32秒]

お名前: 上原 貞治   
追加です。長谷川先生の論文にある423年の彗星もエリダヌス座付近を通っているよう
なので候補となります。Kronkの文献には以下のように書かれています。

423年の彗星:
 Sung shu は、この"sparkling star"の発見を423年2月13日としている。それは、
白色で長さ20度以上と記載されている。文献は、この天体が壁宿(アンドロメダ座αと
ペガスス座γ)の南に現れたと加えている。この日付と位置は、彗星が夕空にあったこと
を示しており、2月13.5日UTの観測となる。Sung shuは、それから、この天体が
「天苑」を通り20日間見えたことを加えている。(以下略)
[2004年7月25日 9時27分4秒]

お名前: 上原 貞治    URL
 キトラ古墳の第4の大きく描かれている星が彗星である可能性を考えた場合、
石川様ご発案の「クロイツ群説」に従いますと、対象が絞られて楽になります。
1〜3世紀のクロイツ群候補で、冬〜春ごろに出現したものだけ探せばよいからです。
これには、長谷川一郎先生の研究、"Orbits of Ancient and Medieval Comets"、
PASJ, Vol. 31, p. 257-270 (1979) を見ればよいでしょう。 

 この論文(上のURLで読めます)の265ページの表によると、133年の彗星と
252年の彗星が、エリダヌス座またはくじら座を通っていて有力候補であること
がわかります。

 以下は、KronkのCometography からの抜粋訳です。これが、はたして、
キトラ古墳の壁画の星でしょうか!?

133年の彗星:
 Hou Han shu(445)(中国の文献)に、「客星」が133年2月8日に「天苑」
(エリダヌス座γ,δ,ζ,τ1,τ2,τ9)に見えた、とある。この日付と位置は、
彗星は夕空にあったことを示している(2月8.4日UT)。この天体は、白気状
で、幅2度、長さ50度と記載されている。 
 この彗星と位置と尾の長さに基づいて、長谷川(1979)は、これがクロイツ群
のメンバーかもしれないと提案している。そう仮定すると、平均的なクロイツ群
の軌道要素によれば、可能性の高い近日点通過日は、133年1月20 +/- 3日となる。

252年の彗星:
 中国文献、Sung shu(489)とChin shu(635)は、この"broom star"(孛星?)
が252年3月24日に見えたことを報告している。この彗星は、胃宿(おひつじ座
35,39,41)に現れた。それは白色で、50〜60度の尾があり、南に延びて、参宿
(オリオン座α,β,γ,δ,ε,ζ,κ)を貫いていた。この彗星は、20日間見えた。
日付と位置から、観測は3月24.5日UTとなる。
 この彗星と位置と尾の長さに基づいて、長谷川(1979)は、これがクロイツ群
のメンバーかもしれないと提案している。そう仮定すると、平均的なクロイツ群
の軌道要素によれば、可能性の高い近日点通過日は、252年3月17 +/- 4日となる。
[2004年7月25日 8時43分12秒]

お名前: 上原 貞治   
石川様、

 おぉっ、クロイツ群とはグッドアイデアですね。

 確かに、たとえば、1843年3月の大彗星は、ちょうど、くじら座から
エリダヌス座を通りましたので方角もあっています。これと同じような
位置関係の彗星だったかもしれないですね。 ご指摘の1106年の彗星に
ついてはよく知らなかったので、調べてみましたら(X/1106 C1 でした)、
やはり、だいたいくじら座からエリダヌス座の方角に見えたみたいです。

 尾が描かれているとわかりやすくていいんですがねぇ....
[2004年7月24日 18時52分34秒]

お名前: 石川 大介   
古天文学については完全に素人ですが、1500年も過去に、夜空を彩る星が詳しく調べられ
古墳の壁に残されたこと、そしてそれを現代の我々が探し当てて、ということに悠久の
時の流れを感じました。

南天に描かれた「第四の星」、該当しそうな彗星や新星の記録がない、とのことですが、
とっさに、クロイツ群彗星だったら面白いなぁ、と思いました。
1965年の、あの池谷・関彗星は、1106年初に出現した大彗星(C/1106 B1?)の回帰らしい
そうですが、さらに1公転前となると、おそらく1〜3世紀でしょう。
・・・かってな想像ですが、もし本当だとしたら、関先生は、キトラ古墳に描かれた
「第四の星」の「子孫」を見つけだしたことになって、話が面白くなる、
なんて想像してしまいました。
[2004年7月24日 15時7分41秒]

お名前: 上原 貞治   
 吉田様、ありがとうございます。高句麗が情報源だとしますと、北からと
いうことになりますね。

 宮島先生のお説に疑問を呈しておいてそのままでは、多少、無責任のようにも
思いましたので、少し調べてみました。アケルナルは、残念ながら中国の古代の
星座にはないようです。この星は「水委」という中国星座に属していたのですが、
大崎正次氏の「中国の星座の歴史」にはリストされておらず、この星座は、
バイエル以後に西洋経由で設定されたものかもしれません。やはり南に低すぎる
のでしょう。古代星座にないとすると、キトラ古墳の星図に現れる可能性も低い
と思います。

 彗星・新星については、3〜7世紀頃の出現記録を調べていますが、今の
ところ、方角が該当するものは見つけていません。

 中国古代星座に属する星でなくても、当時の「最新の天文情報」として、
古墳に描かれたのだとするとすごいと思うのですがねえ。
[2004年7月22日 20時20分10秒]

お名前: 吉田桂一   
古墳に描かれた壁画「飛鳥美人」や古代中国の神獣(白虎など)は、今回、北朝鮮初の世界遺産
として登録された高句麗古墳群に見られる壁画と酷似している様が指摘されています。
(これを「飛鳥美人」と呼んでいいのかとさえ思います。) 海を越え、国を越えて伝えられた
高い芸術性を、さらに時を超えて後世にまで伝えようとした強い意志が感じられます。
天文図も壁画と同様に当時の最先端情報として「原図」?が伝わり、星の結び方などが伝えられ
たことでしょう。
上原様ご指摘の、大きく描かれている四番目の星の同定も興味が湧いてきます。
[2004年7月19日 23時4分11秒]

お名前: 上原 貞治   
 前の書き込みで、「アルケナル」が2カ所にありますが、
「アケルナル」のタイプミスです。訂正いたします。
[2004年7月18日 8時21分59秒]

お名前: 上原 貞治   
 新聞で読んだのですが、宮島先生によると、4つだけ大きく描かれている星が
あって、3つはシリウスとカノープスとフォーマルハウト、もう1つは、同定が
不確実だが、デネブカイトス(βCet)だろうということです。なぜ、これらの
星が特別に選ばれたのか興味があるところです。「4つだけ恒星を選べ」と言わ
れたらどの星を選ぶでしょうか。明るい星、測量に役に立つ星、信仰と関係の
ある星...... などいろいろ考えられます。

参考記事:
http://mytown.asahi.com/nara/news02.asp?c=3&kiji=1096

しかし、最後のデネブカイトスは、目立つ星ではあるものの2等星であり、
描かれている赤経もかなりずれているので、ほかの星である可能性が大きい
ように思います。詳しく調べたわけではありませんが、星図全体を見た感じ
では、1等星であるアルケナルと考えた方が釣り合いがとれそうな気がします。
問題は、アルケナルが日本はおろか当時は南西諸島や中国の緯度でもほとんど
見えなかったということです。
 でも、東南アジアや太平洋での観測からアケルナルの存在が伝わっていたら...
と考えると興味深いものがあります。この時代の星図は他にはなかなかないそう
なので実証はむずかしいかもしれませんが、当時の「国際天文交流」がどういう
ものだったのか考えると非常に面白いと思います。

 あと、この星が、新星や彗星である可能性もあるかもしれません。こちらの
可能性も面白いと思います。 興味がつきません。
[2004年7月18日 8時10分17秒]

お名前: 吉田桂一   
 仕事柄、日経新聞を毎日読んでいますが固い内容の記事が多くて、ほっとする読み物に出会う
ことはなかなかありません。そんなとき4ページの特集で、キトラ古墳と高松塚古墳の壁画に
ついての紹介記事を見つけました。なかでもキトラ古墳の天文図の写真から、白い石灰の下地
に金箔と朱線で描かれた北斗七星もよくわかり、改めて興味を引かれました。
 描かれ手順をよく見ると、先に星々を結ぶ朱線を描いておいて、輝星のところに後から金箔を
丸い形で乗せて星を描いたことがよくわかります。これくらいのことは、すでに皆さんご承知の
ことと思いますが、朱線や輝星が描かれた筆跡がいまだに感じられるのは、さすがと思います。
 ミザールもちゃんと分離させて描かれており、観察の精度もさることながら、当たり前のこと
ですが昔はとても良く星が見えていたことでしょう。
高松塚の石室に32年前に入って、天文図を写し取った学者は「金箔が貼られた星が輝くさまは、
それはもう美しいものでした」と語られた様子が手に取るようにわかります。

芸西の星空もさぞかし美しいことだろうと思います。
[2004年7月13日 9時30分24秒]

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