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思い出の彗星

タットル・ジャコビニ・クレサク彗星
41P/Tuttle-Giacobini-Kresak

 41Pの符号の付く周期彗星である。こうした古い周期彗星の多くはコメットハンターによって眼視的に発見された星がほとんどである。
 1858年に初めて出現した周期約5年の短周期彗星であるが、何回か見逃されて、1951年4月に、当時チェコ(現スロバキア)のスカルナテ・プレソ天文台にいたクレサク博士が彗星捜索中に夕空のしし座に10等級の彗星として発見した。10cmの双眼望遠鏡での発見で、彗星は直ちに新彗星として、コペンハーゲンの中央局に通報された。これが50年ぶりに再現したタットル彗星と知れたのはかなり後のことで、1951年6月の「田上天文速報」に”クレサク彗星は第二タットル彗星”と報道されている。
 その後比較的順調に再発見されてきたが、異変のあったのは1973年の5月に回帰した時の事で、15等級の予報光度であった同彗星が、同年の6月に突然4等級に増光し、尾を流す立派な彗星として肉眼でも幽かに見えるようになった。この現象を見た第三発見者のクレサク博士は、「今回の2度にわたる大爆発で、彗星は、そのエネルギーの大半を失った」と発表して、次期出現に悲観的な見方を示したのである。
 さて次の出現は5年後の1978年12月と目されていた。BAAのマースデン博士はこのクレサク氏の意見を考慮したのか、20等よりも暗い核光度の予報を発表したのである。しかも彗星は太陽に近い最悪の観測条件で、明け方の位置としては、薄明が始まった頃、20度よりも低かった。これでは世界中に天文台多しと言えども誰も探さない。消えたはずのタットル・ジャコビニー・クレサク彗星は、誰の眼にも触れずにひそかに太陽を回り、宇宙の彼方へと消え去ろうとしていたのである。

 1978年11月9日の朝5時、芸西の40cm反射鏡は、正確に彗星の軌跡を捉えていた。なんと彗星の1度以内のところに西方最大離隔の金星が煌々と輝き、彗星のイメージはその光芒に飲み込まれていた。しかし何とか判別できるイメージで、17等級であろうか。
 彗星はクレサク博士の心配をよそに、予定どおりの全光度で堂々と帰還を果たしたのである。今期は芸西しか観測が無い。芸西では翌1979年の1月まで追跡を続けた。ここに発表するは、その中の1枚のプレートで、幕面の無数の傷はその間の長い歳月を物語るものである。傷はある程度修復され、何とか見られるものとなった。彗星は核の見えないモーローたる霧のような姿である。


1978年12月12日 5時10分(J.S.T)から16分間露出
40cm F5反射鏡 103a-O乾板



Copyright (C) 2008 Tsutomu Seki. (関勉)