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思い出の彗星


ゴミ箱の中から生き返った鳥羽彗星(とばすいせい)

− 関勉著 彗星発見の秘伝より −

 1971年3月11日、東京天文台天体掃索部の冨田弘一郎氏から、土浦市の鳥羽健次氏が新彗星を発見したとの報せを受けた。鳥羽氏は3月8日と9日の朝、11cmの反射鏡で発見した彗星を目測(スケッチ?)して天文台に報告したが、赤経が分までの概測であったのと、その観測にかなりの誤差があったため、その日々運動から推定した翌日の位置が相当ずれていた。筆者は天文台からの連絡を受けると直ちに確認の観測に移ったが、朝方、満月に近い月が残っていて眼視では見えず、鳥羽氏の2つの観測位置から推定して、ここと思う位置を口径22cm F5の反射カメラで2枚ほど写真に撮った。ところが現像して見ると月光のため甚だしいカブリである。私は写野の中をじっとしばらく見つめていたが、どうも10等星は写っていない。私はそれまで鳥羽氏のことは知らなかったし、最近天文台への誤報がめっぽう多いので、これもその類ではなかろうか?と、なんだか無駄骨を折ったような気がして、腹立ちまぎれに2枚のプレートをポイとチリ箱で捨ててしまった(その2枚のプレートの中には本物の彗星が輝いていたとも知らないで)。そしてプレートは他のごみといっしょに町の大きなゴミ箱で運ばれ、その日のうちに塵焼場に運ばれる運命となった。東京天文台でも冨田氏が写真を撮られていたが上記の理由(誤差があったのと月明のため)で、この天体はキャッチされていなかった。
 私は、確認できなかったことを天文台にも報告し、再び冨田氏の話も電話で伺えて、この天体は存在しなかったものと思いこんで、すっかり忘れて他の仕事をしていた。ところがその日の午後になって加茂氏が電話をかけてきて、鳥羽氏の彗星の位置に少々エラーがあったらしいことを伝えると共に、鳥羽氏は、最近、阿部彗星(1970g)を相当暗くなるまで追跡した実績もあるので、報告は正しいと思うといっていた。私も、過去の印刷物から鳥羽氏の活動の様子を知り、「これはいけない、鳥羽氏は本当に何かを見たに違いない」と思った。そして慌てて道路に飛び出して町のゴミ箱をあさり始めた。幸いごみはまだ集めに来ていなかったが、「何という間抜けなことをしたのだろう」という後悔が先走って、別に人目についても恥ずかしいとは思わなかった。そして、「鳥羽氏の発見が生きるか死ぬかの重大なせとぎわに立っているんだ。おまえは何という重大なミスを犯したんだ」と目から火が散る思いで探しつづけた。(事実、鳥羽氏の発見は、後にも先にもこれ1つ?!)そして、もう一度きれいに水洗いして、まだ水のしたたるプレートを青空にかざしてじっと見つめた。そしたら、居たいた、写野3°の円形の端ちかくに、ほんのりとかすんだように淡く輝く彗星像が写っているではないか!わずか3分の露出ではあるが、10’〜11’の光輝でチャンと光っているのである。私は、自分の心の弛みからの失敗を深く恥じ、東京天文台の冨田氏に鳥羽彗星キャッチの電話を入れた。この私の報告から冨田氏も天文台でのプレートを入念に調査されて、鳥羽彗星のイメージを見つけ出された。
 こうして鳥羽彗星はゴミ箱の中から再び日の目を見たのだ。大変オーバーな表現だが、あの時は満月も近くなって、発見者自身も見失っていたときである。もし私が再びあのプレートを見つけ出してこなかったら、確認が遅くなって、どっか外国に先んじられたか、あるいはかつての私の1951年のObjectのように永久に見失われたのではあるまいか?とぞっとするものを感ずるのである。この鳥羽彗星の記念すべき確認写真は、後でふすま貼りにされて、鳥羽氏に贈られた。もちろん、そのような事情があろうとは知らないで、今も鳥羽氏の机の上に輝いているはずである。


[鳥羽彗星の写真]
鳥羽彗星(1971年3月20日 午前4時)
22cm反射



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)