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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第9幕 南十字星の下に

 

 天文台から帰ったのは午前6時だった。未だ空の明けやらぬ静寂の中、2階の部屋に入ろうとすると気のせいか闇の中でギターの音がポーンと幽かに響いたようなきがした。勿論誰もいない。6畳くらいの狭い書斎の奥のパソコンを置いてある机の下に1台のギターがケースの中に収まっている。(変だな?)と思いながら明かりをつけ、私はじっと楽器を見つめた。
 芥川竜之介の作品の中に『ピアノ』という短編がある。1926年頃の関東大震災直後の廃墟となった場末の町を歩いていた芥川は、道端の崩れた家屋の中の白い鍵盤がむき出しになっているピアノが、人影の無い暗闇の中で独りポーンと音を奏でたのを聞いたというのである。それから数日後、再び所用で同じ町を通ったとき、またしてもピアノが音を立てた。そっと近づいてみるとピアノの上には屋根は壊れて無く、そのそばに栗の木が生えていた。実はピアノを鳴らした”犯人”は栗の実で、その実が落ちてきて勝手に鍵盤を打ったと言うのである。廃墟の巷に立った芥川のやや神経質だが、白い面の美男子の姿が想われる情景である。
 しかし私のギターの場合は、その様な単純な出来事ではないように思われた。この楽器の持ち主は、今から10年ほど昔、熱心にギターレッスンに通われた大場俊子女史のものだった。すでに80歳を越したと想われる彼女は大層熱心で、クラシックギターのテキストを見るみるうちに片付けて行った。そしてギターの名曲のいくつかがそこそこ弾けるようになっていた。その彼女の銘器を作ったのが、世界的な名工で東京在住の河野賢氏(小惑星5113)で、河野氏も熱心な天文ファンの一人であった(1998年12月没)。
 大場女史は犬のタローとも大の仲良しで”タロー”はレッスンの日に車椅子の音がすると素早く聞きつけ、まるで狂喜乱舞して彼女を歓迎した。それもそのはず、彼女は週1回の練習の日には、必ず犬の好物を持ってきて与えていたのである。ギターのレッスンの合間には、必ず星の話の花が咲いた。彼女が病没して数年経った今も、私は時々彼女の楽器を取り出して昔を偲びながら演奏するのである。そして柴犬のタローも、ギターの音の聞こえるレッスンの日には、今も庭にきちんと座って、車椅子のやってくるのを待っているのである。5年も経ったのに......。
 日本を離れたことの無い彼女が描いたと思われる南十字星も、彼女の手記からその謎が解けた。そこには南十字の取り持つ美しい人間愛の姿があったのである。
(以下は大場夫人の手記より) 

 思えばギターのレッスンに通っていたあの頃が、孤独な私にとって何よりも楽しいことでございました。そしてお星様のお話なぞすべてが、私にとって何より楽しいことでございました。人生の終焉を目前にした私にとりまして、先生の存在はとても輝かしいものでございました。もし私がこのまま冥土に行ったなら、このギターでどうか私の好きなロ短調エチュードを弾いてください。きっと私の耳に届くことと信じて居ります。
 大場女史のこの最後の手紙は、何度読んでも新たな涙を誘うのである。
 大場大尉(大場女史の夫)は第2次世界大戦中従軍し、その部隊はマレー半島に進駐していた。元気象台出身の大尉は、南方の戦線でも空を眺め天気の予報を下すのを忘れなかった。夜は星を眺め珍しい南方の星座をスケッチし日本の妻に送った。クリスチャンだった大場大尉は、十字架(南十字星)に手を合わせて十字を切り、故国での妻の無事を祈ったのである。
 やがて1944年、連合軍の大反撃が始まり、山下大将の率いる部隊は壊滅した。このシンガポールでの戦闘で、不幸にも大尉は戦死したのである。大場夫人が描いたと思われた南十字は、実は夫の大尉が南方で見たもので、そのスケッチを彼女は大切に保存していた。そしていつかは夫の終焉の地を訪ね、南十字と対面したいと考えていたのである。しかしその夢はかなえられることなく大場夫人は世を去ったのである。私はいつの日か南方を訪れ、南十字を仰ぐことがあったら、夫人に代わって大場大尉の冥福を祈ってあげたいと思うのである。

 日本の天文や気象の学者が、戦中外国へ行っても戦場で天象を観測した例は比較的多く知られている。大場大尉の従軍していた同じマレー半島で、星の好きな上等兵がいた。有名な本田実氏である。本田氏はシンガポールでポンコツ自動車のガソリンの抜き取り作業をしているとき、たまたま口径3寸(7.5cm)位の屈折望遠鏡の対物レンズを発見するのである。どうして天文用のレンズがポンコツ自動車のそばで発見されたのか謎である。本田氏は兵隊達の寝静まった後、地図の入れてあった筒や、自動車の部品を巧みに使って1台の天体望遠鏡を組み立てた。そして南方の空を相手に彗星の捜索が始まったのである。
 私の記憶が正しければ、その事件の起こったのは1942年6月であった。南十字星のかかるヤシの木陰で西北の空を捜索しているとき、こじし座の付近に7等級に輝くホウキ星を突然発見するのである。このことが翌日上官に報告された。しかし場所が場所。何しろ戦時中の敵国なるが故に如何に本国に、そして外国に発見のニュースを伝えるかに困り頭を抱えたかが想像される。しかし”天文学に国境は無い”との上官の寛大な措置によって、それまで日本軍の捷報ばかり伝えていたY新聞社が、このニュースを本国に打電したのであった。かつての悲惨な戦場にもこのような心暖まるニュースがあったのだ。
 この電報を受けた東京天文台では、この星がグリグ・シェレルプ周期彗星であることを認めた。同彗星はアメリカのバンビースブルック氏と東京天文台の神田茂氏が検出し同年4月11日から7月12日まで比較的明るく見えていたものであった。この南方からの電報は、彗星発見のニュースを伝えると共に”本田健在なり”を意味するものであった。
 このニュースは当時私達が愛読していた”少国民新聞”にも出た。当時小学生の5〜6年生だった私の脳裏にかすかな記憶がある。戦時下だったが毎日系のこの新聞は多くの科学的記事を書いた。カニンガム彗星、岡林・本田彗星等、明るく人気のある彗星は毎日の如く紙面に登場した。そして連載の小説が素晴らしかった。南洋一郎、山中峯太郎、北村小松らの堂々の執筆陣が、海洋ものや宇宙もの、さてはSF小説にその腕を競った。海野十三の”火星兵団”に至っては、多くの少年少女達の心を未知なる大宇宙に誘い、興奮と感激の坩堝(るつぼ)に追いこんだ。作者が科学者なるが故に彼の文には卓越した想像力があったのだ。この少国民新聞のおかげで科学者になった人も多いと思う。幼少期の出逢いとは誠に大切なものである。

 (次回は”ああ、岡林・本田彗星”です。)



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)