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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第8幕 車椅子の人

 

 33年振りの獅子座流星群の出現だったが、四国地方はその前日あたりから冬型の気圧配置に急転し、多くの雲に悩まされた。回復が1日遅れたため、折角のチャンスが失われた。流星物質の密度の濃い部分と日本列島が遭遇するのは奇跡に近いと思っていたが、やはり多少の時間的なズレも加わって、期待通りの出現には至らなかった様である。マスコミによって大いに宣伝され一般に浸透したのは結構だが、実のところ今までの苦い経験もあって結果が怖かった。多く出現する(雨や雪の如く)とはいえなかった、努めて多くを語らなかったが、それでも何処へ行っても聞かれた。写真屋へ行っても郵便局へ行っても必ず話題になったし、私のギター教室へ通っている老若男女が、誰一人として口にしない人はいなかった。余りの多くの質問に困って私は、私なりに観測の手引書を作成して配った。その結果がまた大変なことになった。知り合いのある看護婦さんが『病院で人を20人ほどあつめたから当日は山へ指導に来てくれ』ということになったのである。その山というのが海抜1400mの梶ケ森のことで、当日私は梶ケ森天文台と芸西天文台の2ケ所をかけ持つことになったのである。(両者の距離は約50キロ)
 村岡健治君の居る梶ケ森天文台は国民宿舎のある関係で早くから沢山の人が予約していたし、芸西は高知市から便利な場所というので多くの人出が予想された。マスコミやら髪を金色に染めた若者のグループ。普段は星に関心の無さそうなおしゃべりの若い女性の集団までが押し寄せて、芸西の丘は黒山の人だかりとなった。それらの人は曇っても雨が降っても、天文台へ行けば星が見えると思っているのか来るのである。
 標高1200米ほどの場所にある梶ケ森天文台は冷たい風が舞っていた。午前2時頃までは晴れ、いくつかの同群の流星が目撃された。私は、1時間ほど参加者のグループに流星の話をして、後は村岡君の指導に任せて早々と芸西に向った。しかし夜半を過ぎた頃から次第に曇り始め、芸西での観測は危なくなった。午前2時半頃天文台に着くとギョッとした。それまでにも多くの車が天文台へと向っていたが、天文台の駐車場は車の山で、狭い山道にも行列となって停まっている。こんな状態であるから天文台に入るのは諦め、近くの道ばたに陣取って観測の準備をした。天文台ではスタッフの岡村、川添の両氏が指導している筈である。空は一面薄雲に被われていたが、それでも半月クラスの火球が2度3度と飛んで、丘の上では大きな歓声とただならぬどよめきが起こった。木星がおぼろげに見えている。白雲をついて、あちこちが時々ピカーッと光るのは-1等星以上の火球の出現であろう。

 こうして夜が明けるまで曇天の観測となったが、実は芸西天文台にやってきたお客さんで珍しい人が2人居た。
 その一人は鳥取県に住むコメットハンターの田中善一氏で、彼は芸西に来れば私に会えると思って観測の機材を持ってやって来たのだという。冬場の鳥取の悪天候を避けてのことであったろうに、この夜に限って曇ってしまって残念であったろう。同氏は数年前にも奥さんと3人の小さな子供を連れて私の家にやって来たことがある。当然のことながら彗星発見談義に花を咲かせた。彼は、昔私の出した本を持っていた。頁を開くと至る所、大切と思われる文章に赤いアンダーラインを引いて、しかも本が破けてボロボロになるまで勉強した後が見えた。彗星の発見者に会うと必ず何か心を打たれるものがある。
 おおよそ彗星の発見というものは、簡単にできるものではない。多少オーバーな表現だが眼視的には目に星が入るまで、そして写真的には写したフィルムが部屋に堆積し、その中に溺れるまで続けないと見つからないのである。因に芸西で今迄観測した小惑星の数は約1500個、彗星は数知れず。使ったプレートまたはフィルムは1万数千枚。しかしそれでも写真的な新彗星は未だ発見していない。リンカーン天文台では1晩に1500個の小惑星を発見し、新旧を区別するというが、これでも1日の掃天では彗星は見つからない。芸西が15年かかって同じ1500個見つけたといっても、彗星が入らぬのは当然のことかもしれない。コダックの天文用プレートは驚くほど高価である。遠くの天文台へ通う費用もままならぬ。そして成果の挙がらぬ毎日。時としては気が塞がり、のめりそうになる。しかし、それでも頑張らなくてはならないと思う。遠くにキラキラと輝く目標を見失った時、人生は終わりである。
 さて、再び芸西の丘に帰ろう。駐車場で車椅子の男性が熱心に流星を記録している。勿論火球のみである。話を聞いてみると、この人も東北の遠方からやってきたと言う。なんでも幼い頃私の居る通町(上町)に住んでいて、私の家もよく知っていると言う。何と言う奇縁だろうということで、空を仰ぎながら昔話がはずんだ。この他にも車椅子の人について実は不思議な思い出があった。私のギターの門下生に大場俊子さんという年取った婦人がいた。御主人は偉い軍人だったが若くして戦死された。永い間未亡人の生活を送ったが、彼女は星とギターが好きであった。脚が不自由で、いつも電動の車椅子で鏡川を渡ってレッスンに通ってきた。1910年(ハレー彗星が訪れた明治43年)生まれの彼女は、私の家の飼犬が好きで、犬も大変なついていた。車椅子の音を聞くと素早く聞きつけて、入ってくる彼女に天を仰いで歓迎の遠ぼえを行った。それもそのはず、犬の方も1986年のハレー彗星のやってきた年に生まれた、その名は柴犬の”タロー”である。
 大場さんは鏡川の南側、高知市でも星の美しい町に住んでいて、夏の天の川や、絢爛たる冬の星座が南山の上を彩る頃には、よくスケッチして持って来た。それは星空のアンターレスだったり、冬のオリオンや大犬だったりした。そんな時、つい夢中になってギターを忘れ星の談義に花が咲くのであった。
 しかしそんな幸せな日々はいつまでも続かなかった。急病で入院した彼女は、私が見舞いに行く間もなく急逝されたのである。それから数日後、身寄りのない彼女だったが、親族と名乗る人が現れて彼女の愛用のギターを持ってきた。亡くなる時に『この楽器を先生に』言い残したと言う。今は主を失って鳴らなくなったギターを出してみた。するとケースの底から私にあてた1通の封書が出て来た。白い封筒の中身を取り出すと、先づ1枚のスケッチが目についた。後は遺書となった長い手紙だった。
 スケッチは、いつものとおり彼女の描いた星座かと思ったが、どうやら様子が変であった。それは十字架に似た奇妙な星座が鉛筆で描かれ、1943のサインがしてあった。これには何か深い理由がありそうだ、そう思いながら、彼女の手紙を読んで行く中、私自身、見る見る顔色が変わっていくのを感じた。星座はなんと南十字だった!そして私の知らなかった意外な事実が遺書の中から展開して行くのである。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)