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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第7幕 ハレー彗星奇談(2) - 留子が行く -

 

 私がニューカレドニアから帰って間もない1986年の4月中旬、東京から五藤留子夫人がやって来た。勿論亡夫の斉三氏に代わってハレー彗星を見んが為である。留子夫人は既に髪が真白で80才をすでに過ぎたと思われたが、いつも地味な和服を端正に着こなして温和な表情の中にも、土佐の女らしい精悍さが伺えた。夫人は高知市の山内家ゆかりのホテルに宿をとって1週間滞在し、ハレー彗星を観測することにした。夫人の胸中は、きっとハレー彗星を亡き夫のために立派に観測して宿願を果たしたいと、との一念が火の如く燃えていたに違いない。
 しかし、この立派な夫人の志に対して夫はなかなか味方しなかった。土佐路はすでに雨期(菜種梅雨)に入り、来る日も来る日も雨。雲の彼方のハレー彗星は、さそり座の南を掠めて、時々刻々、日本から観望困難な南半球の空にぐんぐんと侵入している筈だった。
 書斎の窓から虚しく南の空を見つめる私。孤独なホテルの部屋で独りじっとしてチャンスを待つ夫人。毎日電話を入れて、『明日はきっと晴れますから』と慰めながらも”関予報官”の頭には一向に晴れる予感が訪れないのだ。
 かくてアッという間に1週間が過ぎた。最後の日、私は夫人に『滞在をもう1日だけ延ばしていただけませんか?明日はきっと見えると思いますから』と頼んだ。これには格別の理由があるわけではなかった。あえて言えば私の勘と過去30年間の私の観測ノートでは4月22日という日が比較的多く晴れ、観測が出来ていたからである。
 しかし、その22日も朝から霖雨模様の霧雨。これで折角のチャンスも万事休したかに見えた。夜中の22時半、私は諦めて3階の寝室で横になりながら南の鷲尾山の方を見ていた。キラリと何かが光ってハッとした。しかしそれは雨に濡れた庭の木立の露に、遠くの街路灯が反射して星の如く見えているのだった。絶望感に支配されながら物思いに耽っていた。天文台の周りを徘徊する五藤氏が出て来た。ニューカレドニアのアメデ灯台の上に輝くハレー彗星が思い出された。(ああ、残念)と思いながら、もう一度南の空を見た。

 その時、青い星が1つピカーッと輝き始めた。スピカだ!晴れてきたのだ!!私はガバッと跳ね起きると傍らの受話器を掴んだ。時刻は23時過ぎ、ホテルのお年寄りに電話するには余りにも遅い時刻である。しかし躊躇なんかする暇はなかった。ハレー彗星を2度見る重大な局面が待っていたのだ。気丈夫な土佐の女にとって徹夜の観測なんて訳ないことである。”留子が行く”夫に代わってハレー彗星を立派に見るのだ。深夜の国道を天文台に向って車は疾走した。
 約1時間で天文台に着くと、どうして知ったのか数人のマスコミが待機している。つい4月始めにも、ハレー彗星の尾が消えてしまうという怪現象を天文台でキャッチし、Y新聞社がスクープしたばかりだった。何とかの事件ではないが、ハレー彗星の見えている間は、天文台の周辺に記者が常にうろうろして、何かトップニュースはないかとドームの中を伺っていた。
 午前0時を過ぎてからのハレー彗星は、西南の海すれすれの極めてきつい条件だった。
 60cm鏡に同架せる20cm屈折鏡は、五藤氏が極めて入念に作ったという彼自慢のレンズだった。60mmケルナーと組み合わせて40倍。その明快な視野は午前0時30分、ついに青いハレー彗星の光芒を捕らえた。しかし必死に覗き込む、留子夫人の緊張した横顔の方が、私には遥かに蒼く見えた。

 『あなた、只今ハレー彗星を見ました。』

と呟きながら留子夫人はレンズに向って静かに合掌した。

 人世には、いくつかの感動的な絵があるという。1961年10月12日の早曉、初めて発見したホウキ星のこと。イケヤ・セキ彗星を見つけた朝、電報を打ちに行ってNTTの玄関前で、昇ったばかりの新鮮な朝日に写し出された高知城の白い城壁の美しさ。1986年1月26日、母が亡くなった日に見つけた小惑星を、数年の捜索の末再発見した時の感激。苦難は多いがいづれの場合も生きていて良かった、努力して良かったと涙する瞬間である。留子夫人のハレー彗星との再会のことも彼女の人生にとって最も大きかったエポックの1つである筈である。
 観測終了後、ホッとするのもつかの間、マスコミの攻撃にあってまたしても緊張する羽目にあったのは気の毒であった。

 かくて春が過ぎ夏がきた。朝からカラリと晴れ、せみの声のやかましい7月のある午後、東京の留子夫人から書簡が届けられた。再度の礼状のほか、事の次第を夫の霊前に報告したこと、そしてこんな歌がしたためられてあった。

  竜馬ぼし、五藤ぼし共どもにハレー求めて翔けりいん

 竜馬は小惑星(2835)として空を回っている。五藤も(2621)として夜空を飛んでいることは既に語った通りである。それに最近になって留子(5966)も加わったから天界も賑やかである。留子女史の歌から勝手にこんな情景を描いてみた。

 ある日、桂浜を散策中の竜馬にステッキを突き和服姿の五藤氏夫妻が出逢った。続けて竜宮様の石段をゆっくり降りてくる浪人姿の竜馬に五藤氏が声をかける。
 「坂本さん、今日は桂浜の散歩ですか。」
 「おお、これはこれは五藤さん、お揃いでいつまでも元気で結構ですのう。」と竜馬。続いて
 「桂浜はいつ来ても景色の良い所じゃのう。」と、少し目を細めるようにして沖を見る。
 「ところで坂本さん、あなたはハレー彗星をご存知ですか?」と五藤氏は早速に星の話を始める。
 「ハレー彗星か、拙者がまだ幼い頃、よう母上がホウキ星の話をしてくれたもんじゃ。しかし実際に見たのは拙者が銅像になってからじゃ。ワッハッハッハ。」と豪傑らしい大笑い。
 「坂本さん、海援隊の隊士菅野覚兵衛さんの生まれた芸西村に、私の作った天文台がありますが、ぜひお暇な折にでもご覧になって下さい。」と五藤氏が宣伝をする。この時控えめに後ろに立って2人の会話を聞いていた留子夫人が進み出て
 「あなた、これから坂本先生を天文台にご案内したら如何でしょう。芸西は天の川もきれいに見えて、坂本先生もきっとお気に召されましょうから。」とつけ加える。
 「かたじけない。それでは早速にご案内願うとするか。」と竜馬は革靴の底に入った砂を払い、小柄な体に似合わずのっしのっしと歩き始める(竜馬は袴姿で靴をはいていた)。
 芸西天文台は県立であって財団法人、文教協会が管理している。天文台のスタッフは7人で毎月5回程度一般公開を行っているのである。さて竜馬たちがやって来るというその日は私が担当していた。大人やら子供やら、ざっと30人ばかりの団体を相手に星を見せていた。眼視的には20cmの屈折がメインで、一般の観望の目的なら20cmで十分、大口径は不要である。この程度の屈折なら悪気流に影響されることも少ないし、惑星面も実に安定して良く見える。一通り木星や土星を見たところでドームの外に出て星座観察を始めた。南中からやや西に回り始めた天の川が何とも美しい。暗黒星雲の陰影は克明に過ぎて恐ろしいばかり。夏の大三角を指して懐中電灯の光条が走る。まるでプラネタリウムである。銀河の南の果てにはアンタレスがただ赤く燃え、その下を土佐湾の漁船の火が行き交う。空が良いと星には見事な色彩感がある。こうしてしばし美しい星空に酔っている時、突然だれかが叫んだ。
 「アッ、あすこに何かが居る!」と子供の声。
 「狸ですね、2匹いる様です」と父兄らしい女の声。
 「いや3頭ですね、後ろの方に小さいのが一匹」と大人の男の声。
 懐中電灯を照らすと、なるほど四つの目が並び、その後ろに控え目に一頭、じっとこちらを伺っているのである。しかし狸たちは多くの人間に驚いたのか、こそこそと薮の中に逃げ込んでしまった。
 「昔は狸や狐が沢山居たようですが、人間たちによる開発が進んで最近ではめっきり少なくなりました」と私が語った。続いて「皆さん、それでは東をご覧下さい、森の上に早くもスバルが見えてきました!」私は威勢よく叫んだ。

追記:
 竜馬の妻「お竜」は京都の医師、楢崎将作の娘で三女の君枝が芸西村和食の菅野覚兵衛と結婚した。菅野はのち竜馬の率いる海援隊士となった。芸西村の琴ヶ浜にお竜と君枝の銅像があり、今は空を飛ぶ竜馬を見上げている。お竜は竜馬の死後永く生きたが、何か困難があると「竜馬が居たらなあ・・・」というのが口ぐせであったという。
 このOryoも小惑星(5823)として竜馬の後を追った。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)