トップページへ

連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第6幕 ハレー彗星奇談(1)

 

 1986年に近日点を通ったハレー彗星は、その年の3月末から4月上旬にかけて、さそり座の南を掠める様に西に運行して行った。日本からは観測しにくい低空である。この頃、奇妙な現象が起こったのである。
 南に大平洋を受けた芸西天文台は、連日多くの見学者で賑わっていたが、ハレーが南天に低くなった4月には天文台を訪れる人も少なくなった。その4月7日の夕、私は天文台の一角に奇妙な天体望遠鏡を立て、南の洋上に低いハレー彗星を追っていた。その一風変わった望遠鏡というのが、今から150年余り昔、山内容堂公がドイツから購入したと見られる天界鏡である。このテレスコープが最初に発見したものは、尾が飛んで奇妙な形をしたハレー彗星であった。
 山内家伝家の望遠鏡は口径が8cm(F15)、アイピースはアメリカサイズで6mmから25mmまで揃い、サングラスや地上用まで付いている。100年以上経過しているのに、鏡筒は漆塗りで美しく真鍮の金属部もピカピカ。恐らく100年以上もの永きに亘って、お城の倉で眠り続けたものであろう。
 私は先づ南天なる天の川の方向にレンズを向けてみた。星像は実にシャープで銀河の微光星たちが砂を撒いた様に美しく展開する。但し色は全体に青に偏っているらしく視野はバイオレットの夢の様に美しい光景である。中心部の僅かな滲みは球面収差によるものか。周辺の彗星の様なコマは軽微で1800年代のレンズとしては優秀。この時赤い人工衛星が幽かに点滅しながら視野を横切った。続いて南に低いハレー彗星へ鏡筒を移行する。思えば竜馬誕生の1835年の時のハレー彗星を、このテレスコープで何者が覗いただろうか?
あれから3度めのハレー彗星が夜空に輝く。そして行き交う人工衛星。私は幕末から人工衛生までの約150年の歴史を一瞬の中に見たような気がした。
 さそりのしっぽの少し南を、海面すれすれに西進して行くハレーを、このレンズが捕らえたとき、まず外観の異常に気付いた。尾が全く見えないのである!2月11日に近日点を通過して西北に7〜8度ばかりの悠々たる尾を見せていたはずのハレー彗星は、4月7日になって尾が消えてしまい、ただの円盤状になってしまったのだ!(こんなことがあるだろうか?もしやこれはFの暗いテレスコープのせいではなかろうか。怪しげな山内家伝家の望遠メガネに騙されたのだ)。そう思って直ちに60cm鏡に誘動した。しかし尾の飛んだハレー彗星の姿は時代ものテレスコープのせいではなかった。60cmの大口径鏡で覗いても、尾は消失し巨大なコマだけの見事な円盤状である。これは方向的に尾が見にくい状態になったのか、或は一時にガス欠となって活動を弱めたのか、私は恐らく後者のほうではないかと思う。そして、その翌日(4月8日)には南方に飛んで奇妙な形のハレー彗星を仰ぐことになるのである。4月8〜13日、ニューカレドニアで見たハレー彗星は、それまでとは打って変わって扇形の非常に短い尾を見せていたのである。

 この頃の私は、ハレー彗星のおかげで随分と旅をした。3月下旬から4月中旬にかけての僅か半月の間に赤道を2回越えた。ハレーに関連して北海道の北の果てにも3回行った。あれは確かハレー彗星接近前の1984年頃だったと思う。北見市に講演に訪れた。北見は高知市と姉妹都市の縁組みを結んでおり、お互いに文化交流を行っている関係もあって、当時の北見市の市長から小惑星高知(2396)と共に、小惑星”北見”も姉妹都市のシンボルとして共に宇宙を飛翔する様、ぜひ努力して欲しい、との依頼を受けた。実はその頃、北海道では彗星も小惑星も、ただの1個も発見が無いというから全く信じられtない話であった。

 その日の北見市での講演会の中で私は新天体発見の意義を説いた。そして北見の星の発見を約したのである。実際に星が実現するまでの数年間にマスコミによって”北見の星”のことが度々報道された。私が2回目に北見市を訪れたのは1986年に発見した小惑星1986WMが3785番として無事確定し命名された1988年頃であった。北見市による小惑星命名の記念会が行われ、再びその報告を兼ねた講演会が開かれた。この時、会場に今や日本に於ける小惑星発見の第一人者となった上田清二氏他の顔があった。そして今日の北海道での小惑星発見の爆発的ブーム。誠にマスコミの力とは偉大である。そして僅か口径15cm〜20cmの小口径で、沢山の小惑星を発見し記録したのも一つの革命であったと信じる。今や日本では1mを越えるような大口径鏡が民間の天文台で建設されるのは珍しくない。よそより口径を1cmでも大きくしてタイトルを取ろうという風潮が見られるが、考え方によれば実につまらぬことである。例え他より小さくとも偉れた腕の立つ観測者を獲得し或は養成し観測の成果を挙げることこそ大切である。巨額の金を拂って単なる惑星の観望にとどまったり、或は星団や星雲の鑑賞写真を撮るだけに終始する様では話にならぬのである。”与えられた口径をフルに活用するだけの仕事をせよ”これが私のモットーとするところであり私自身への戒めでもある。小口径を駆使した日本のアマチュアによる太陽系の天体の発見は素晴らしいが、今後はリンカン天文台ほかによる根こそぎ的な捜索によって、日本の中・小天文台がどのように対処し今後に仕事の場を見い出して行くか注目されるところである。正に日本の捜索界も正念場を迎えたと言える。
 さて、私がこの連載を書いている座り机は、小惑星北見が実現したとき、その記念として北見市から送られた座り机で、北海道の銘木から造られたという机は立派である。この机に向かうと不思議と昔の思い出が甦り筆が踊るのである。

 あれはハレー彗星が南に下り、その熱も、そろそろ下火になろうかという1986年4月中旬のことであった。芸西天文台の生みの親である五藤氏夫人の留子女史から一通の書状を受け取った。
 『拝啓 その後ご無沙汰して居りますがお変わり無きことと存じ上げます。あなた様の活躍のご様子はマスコミ等を通じて良く拝察致して居ります。
 かつてハレー彗星を日本でいち早くキャッチされました時には、五藤も”望遠鏡を贈った甲斐があった”と何度も申して居りました。本当に有難うございました。若い頃ハレー彗星を眺め、天文に興味を持つ様になった本人は、今回のハレーとの2度めの対面をどんなにか期待していたことでしょうか。本人は宿痾(糖尿)にも負けず、そしてお互いに健康には最新の注意をはらって生き長らえて来たので御座居ます。それもハレー彗星と2度目の対面を果たすまではという希望がありてのこと。ハレー彗星がやってきた曉には不自由な体を押してでも、芸西に行って貴方様に見せてもらうんだ、と口癖のように申していたので御座居ます。しかしその希望も叶えられず本人はどんなにか心残りがあったろうと思うと断腸の思いさえ致します。つきましては関様にお願いごとが御座居ます。もし勝手が許されますならば、私が五藤に代わってハレー彗星を見届けたいので御座居ます。五藤と私は常に一心同体で何ごとにも当たって参ったのです。私が見るということは五藤が見るということ、どうかこの願いを哀れな老女の最後の頼みとお受け入れ下さり、寛大なお恵みを賜りますよう切にお願いする次第でございます。無礼も顧みず大変失礼を申し上げました。あなた様の益々の御活躍お祈り申し上げます。かしこ』
 かくて留子夫人がハレー彗星を見るべく高知入りしたのは1986年4月中旬のことであった。

 土佐では古くから”イゴッソー”とか”ハチキン”とか呼ばれる人たちが多く居る。ホウキ星を見つけるにもある程度イゴッソー(頑固者のことだが真意は説明しにくい)の精神が必要だが、ハチキンとは男勝りの女性のことで、一般に”金叩き”ともいわれ何の役にも立たないことが多い。そんな人を妻にでも持てば内助の功どころか一生を振り回されてしまうのである。
 一方で土佐には昔から夫に忠実で献身的な女が多く居た、五藤留子夫人もその一人で、山内一豊公の妻的なあっぱれな女性は、土佐でのこの留子夫人を最後の女(ひと)と見たが如何なものであろうか。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)