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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第53幕 クロムメリン彗星と山崎正光氏(2)

 

 クロムメリン彗星が28年ぶりに現れた1956年は、太陽の活動の盛んな年で、オーロラが日本の如き中緯度で見えるのではないか?と山本一清(いっせい)博士が盛んに喧伝していた。本物のオーロラではないが、その疑似現象として明るい夜光現象が各地で望見された。事実、クロムメリン彗星捜索の為に午前2時に起床した時の高知市の空は、まるで満月の光ではないか?と思うほどに、暗夜の空が輝いていた。その現象は滋賀県の「山本天文台」でも目撃されたという。
 クロムメリン彗星の予想されたコースは、明け方東の空に巨体を乗り出してきた獅子座の中を通るようになっていた。予報は余り正しくないので、私は15pの反射式望遠鏡で、普通の彗星捜索をやる要領で、頭上から東の地平線に向かって捜索して行ったのである。その間沢山の星団や銀河が見えた。捜索に習熟していた私には、それらが一見しただけで、別物として捨てていった。ところが...。
 15p鏡の視野が獅子の大鎌の少し北に差し掛かった時、フイッと妙な光体が視野を掠めたのである。「オッ」と心で叫んで視野を真中にもどした。「居た!!」朦朧(もうろう)と煙った彗星らしい妖しい光芒である。予期せざる(ちん)入者である。「クロムメリンか!?」胸は早鐘の如く高鳴りはじめた。山崎さんの顔が浮かんだ。私の発見に期待しているであろう山本博士の笑顔も見えてきた。彗星はそれらの姿と重なって、なおも爛々と輝くのであった。「早く電報を!」と思って胸が騒ぎ始めた。記憶ではこの付近をうろついている彗星は無かった。「クロムメリンに違いない」あの28年周期の謎の彗星が帰ってきたのだ!その朝、早速電報を打った。まずは東京天文台へ。そして山本天文台へ。続いて私からの朗報を待っているであろう28年昔の発見者「山崎正光」氏へ。 電文は万国共通の欧文電である。しかも天文学の世界でのみ通用する暗号電報である。 土佐の高知の片田舎から、しかも無名の人間から、彗星発見の正式の発見電報が届いたことに、東京天文台長も驚いたことであろう。「これは只者ではない」と悟って、直ちに国内の主な天文台や研究機関に転電した。
 ところがそれと入れ違いにコペンハーゲンのセンターから、新天体の発見を伝える国際天文電報が届いた。それはチェコスロバキアで発見された彗星で、その位置は正しく私の発見と一致していたのである。クロムメリン彗星は一足早くスカルナテ・プレソ天文台で発見されていたのである。残念の捲きであった。当時のスカルナテ・プレソ天文台は、数人のプロのコメットハンターが居て、特殊な広角の双眼式コメットシーカーで全天を捜索していた。終戦直後の1946年からベクバル台長をはじめ、クレサク博士やムルコス氏。パジュサコヴァ女史なんかが大活躍して我々を寄せつけなかった。その難儀な時代に私は10年間を無為に過ごしたのである。
 しかしクロムメリン彗星は私にとって記念すべき最初の成果であった。ここから再び新彗星に向かっての捜索が続き、それから5年後の1961年10月、同じ獅子座の中に「セキ彗星 C/1961 T1」の発見に成功したのである。この時、山崎さんも山本博士も尊命されていなかったが、発見の電報は,敢えて故人の下に届けられたのである。「山本の霊前にこの電報をそなえ、共に喜びを分かち合いました」と言う英子夫人からの返信が、深い印象として私の心に残っている。



2011年に回帰したクロムメリン彗星
撮影:関勉




© 2018 Tsutomu Seki. (関勉)