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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第50幕 津波救助艇「荒天号」の行方

 

 大地震による津波の被害から身を守り、また遭難した人を救助するために国が考案し試作した「津波救助艇」が発表されてまだ耳新しいが、海難の時に、荒れる水面より、水中の方が安全である、との発想から、実に今から60年も前に、すでにこれを製作し実用に供した驚くべき人が居た。その船の名は「荒天号(こうてんごう)」である。
 高知市介良(けら)出身の旧・日本海軍の兵士だったSS氏は、1947年、復員すると高知市に「東西天文学会」なるものを立ち上げた。会のスタッフは、全員が復員兵という変わったメンバーで、SS氏の他に戦闘機と、爆撃機の乗員2人の計3人がいた。学会は高知市の中心にある「高知県文教協会」の中に事務所を置き、まず県下の小学校を巡回して、天体の観測会を開くことから始まった。
 当時は終戦後僅かに2年で高知市の大半は空襲による廃墟のままであった。国内には天文台や科学施設は少なく、天体望遠鏡すら、ろくになかった。このような物資の欠乏した時代に、SS氏はどこから調達してきたのか、口径20cmの屈折経緯台3台を構えて県下の各地で観測会を開いたのである。これはSS氏を語る多くの謎の一つであった。日本の主要都市は戦時の爆撃によって焦土と化し、工場もなく、このような立派な天体望遠鏡を構えることは到底不可能だったし、また購入の資金もなかった筈である。
 1948年の仲秋明月の夜、高知市の中心街の焼け跡の中で、名月の観望会が開かれているとき、たまたま街を歩いていた私は、この催しを見つけて参加した。「東西天文学会」は後の「東亜天文学会高知支部」で、私はこれを機に入会した。天文学を全く解さない若干18歳の風来坊の私が、それから実に60年後、京都に本部を置き、日本でも伝統のある、東亜天文学会の会長を務めるようになろうとは、運命のなせる業とは言え、なんという奇遇であろうか。人生と言うものは、こうした奇跡の連続のような気がする。
 支部長のSS氏は、有名な発明家でもあった。習字の時に摺る墨の「自動墨摺り器」を発明したことでも有名であるが、実は彼の目標は、もっとでっかかった。それは天文学会を運営しながら、当時、東洋で1台しかないと言われていたプラネタリュウムを高知市に実現させることであった。この夢のようなプランを、僅かに仲間3人で実現させようとした活気は凄かった。その3人の中に私が居たのだ。何からなにまで初めての体験で、折から高知市で開催された「南国産業大博覧会」に合わせて、毎日が徹夜の突貫作業で、今から思えば、夢があったからやれたのである。このプラネタリュウム製造の話は、このシリーズですでに述べているので省略しよう。
 さて問題の潜水艇「荒天号」である。プラネタリュウム製作の出来事が終わって、そろそろ人の脳裏から忘却されようとした1985年、突然にやってきた。プラネタリュウムのことから実に35年。経営に失敗して消え去ったSS氏は突然、鹿児島で旗を挙げたのである。触れ込みは、『どのような悪天候の時にも沈まず、水中を安全に航行できる潜水艦をオールハンドメードで造り上げた』というのである。当然、マスコミの騒ぐこととなって、報道は彼の郷里の高知県まで伝わってきたのである。
 彼は、1946年の南海大地震に遭遇した。港湾に近い海抜ゼロメーター地区に住んでいた彼は、その時の津波の恐ろしさを体験した。海難救助艇の構想は、その時から持ち続けていたという。1985年、堂々の進水式を挙げた荒天号は、鹿児島の港を出港して、日本列島一周のデモ航海の旅に出、最初の寄港地に故郷の高知港を選んだのである。埠頭では高知市民の大歓迎を受けた。


「竜馬記念館」の広場に展示されている「荒天号」の威容

 潜水可能な荒天号は全長15m、約20人を収容できる。日本列島周回の旅の途中の三陸沖で、難破船に出会った。荒天号は、船を曳航して近くの港に着き、早速の役目を果たした。しかし「荒天号」は、その後、地震等による災害がなく、1992年、SS氏の死去と共に現役引退となったのである。
 星空と海洋に多大の夢を描いた発明家のSS氏は、世界にも珍しい存在であった。彼の造った「荒天号」は、坂本竜馬ゆかりの地、桂浜の高台に展示された。SS氏の友人の建てた看板には、「これからの若者に夢を与える偉人」としての説明がある。
 こうして、世にも不思議な発明家SS氏の仕事は一件落着したかに見えた。
 しかし物語はこれで終わったわけではない。発明家、SS氏の死去から20年の歳月を経て、実に信じられない奇怪な事件が発生したのである。




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