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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第49幕 浜辺の歌

 

 芸西天文台で発見した3つの小惑星に最近名前が付けられた。即ち、(20102) Takasago、(26151) Irinokaigan、(58185) Rokkosanである。高砂と六甲山は有名な兵庫県の地名である。これは2009年5月に関が神戸市の三宮で講演した時、地元の方々と約束した命名で、特に六甲山は昔から親しみを持っていた。六甲の水は有名であるが、昔のミノルタが出した名レンズ「ロッコール」も、この山の名から発想したものである。また1957年に初めて人工衛星が打ち上げられた時、全国の天文アマチュアたちが大挙してその眼視観測に参加したが、そのとき百済教ユ氏が提案して、この六甲山の頂上に白く光る金属の玉を置いて観測の目標にしたことがある。また遠く太平洋戦争の始まった頃、この山上に高射砲陣地があった。戦争末期の1944〜45年には、盛んに神戸に侵入してくるB-29を撃ったが、命中率が極めて高く、敵の乗員を戦慄させたという。港町神戸の北にそそりたつ六甲の山並みは如何にも美しく私の大好きな光景である。

 さて、ここで語る本題は実は「入野海岸(いりのかいがん)」の方である。
 高知県足摺(あしずり)半島付近の海岸は日本列島で、黒潮が一番早く到達するところとして知られている。上に掲げた(26151)「入野海岸」は半島に近い幡多郡(はたぐん)黒潮町(くろしおちょう)(旧・幡多郡大方町(おおがたちょう))の海岸である。この海岸線一帯に流れ着いた漂着物は拾得されて、町のホール「あかつき館」で展示会が催うされている。5年ほど前に私が訪れたときに、たまたま多くの漂着物の展示会が開かれていた。それらは実にさまざまで、遠い南の島からはるばると旅してきたと思われる椰子の実や、韓国からの来たと思われるハングル語の描かれた不思議なお面。船のブイや水筒、羅針盤(らしんばん)に子鯨の骨。遭難船の物であろうか?それらのさまざまな品のなかでハッと目を引く不思議な物が2つあった。
 その1つは小さなビンに入った手紙である。館の説明によると、1991年4月9日の夕刻、この海岸に漂着したビンの中にはアメリカ、テキサス州、バーモンドのブライアン君(当時11歳)がメキシコ海岸から流したもので、手紙は11ヶ国語で書かれていたという。それにしても波にもまれること幾年月、ビンはどのようなコースを辿って、はるばると日本に辿りついたものであろう?無論、いまは16歳となったブライアン君に町の砂浜美術館から返信が送られ、彼を喜ばせた。

[手紙の入ったビン]

 さてもう1つの漂着物は不思議である。それはケースに入ったダイヤの指輪である。ケースは長年月、波にもまれたと見えて、辛うじて原型をとどめる程度のボロボロ。砂浜で発見した人がケースを開けるとダイヤが太陽の光に燦然と輝いたと言う。「一体、誰が何のために海に投じた物であろう?」そしてどこから、、、?入野の海岸に立つ私の脳裏にふと、このような発想が浮かんできた。

 <太平洋戦争の末期、地元から出征兵士が出た。結婚後間もない彼は、新妻から、結婚指輪を渡された。「これを私と思って大事にし、必ず元気に帰ってきてください。」という妻の切ない願いからの贈り物であった。しかし南方に向う輸送船は目的地に向う途中の洋上で、敵の潜水艦によって撃沈された。兵士は儚くも海の藻屑と消え、大事に持っていた指輪のケースだけが南方の海を果てしなくさまよう運命となったのである。何年かして無人島に漂着した。そして何回かの地震による津波によって再び漂流をはじめ、また何十年かの歳月を経て恋しい故郷の砂浜に辿りついたのである。そこはかつての妻と歩き、愛をささやいた入野の松原であり、美しい波の打ちよせる海岸であった。兵士の魂はここで初めて安息の地をえたのである>。

[ケースに入ったダイヤの指輪]

 これを拾得した地元の人は一体なにを想像したであろうか?もし兵士の妻が元気だったとしたら、、、。そして「あかつき館」に展示されているダイヤの指輪を見たとしたら、、、。
 二人の地元の人らしい老婦人が何かささやきながら、不思議そうに指輪を見ていた。あの日から70年。すべてが忘却の世界に消えて行ったのである。
 私は、そのような空想を巡らしながら長い渚を歩いた。
 そしてこのような歌を口ずさんでいた。

  ♪ あした浜辺をさまよえば
      昔のことぞ忍ばるる
        風よ音よ雲のさまよ
          寄する波も貝の色も

 こうしたロマンに満ちた海岸は、なにごとも無かったように、今日も明るい太陽の光の下に美しい渚を夢の如く展開さしているのだった。




Copyright (C) 2009 Tsutomu Seki. (関勉)