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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第48幕 大空襲の夜の星

 

 7月4日は第二次大戦中に高知市が大空襲を受けた日である。毎年この日がやってくる頃になると、いろんな行事や、当時の状況を語り継ぐための写真や遺品の展示会が開かれる。真夏の炎天下に映し出された、まるで荒れ果てた砂漠のような焦土、高知市の風景は、今も私の眼底に焼き付いて離れない。
 1940年7月3日、私たち一家は夜遅くに中庭の壕に入っていた。大戦がしげくなる頃には、各家庭がいわゆる防空壕を掘って地中にもぐった。街頭での防空演習にも余念がなかった。当時グッチー豆カメラで撮った、たった一枚の壕の貴重な写真が残っている。当時中一の学生だった私は滅多に学校へ通うことはなかった。戦争が大詰めになってからは、県下の山や海岸での軍事作業に従事していたのである。
 午前3時になった。壕に持ち込んでいたラジオから空襲警報が発令されたことを知った。「中部防空情報」はB-29の編隊が、室戸岬の上空を北上している事を告げた。こうなると正確に10分後には、あの四発機独特の「ブルン、ブルン」という爆音が聞こえて、そして通過して行くのだが、その夜はなかなかやってこなかった。私は、なんとなく壕の中の息が詰まるような陰惨な空気から解放されたくて、危険なのは承知で壕の外に出て、地上に立った。其のとき、暗黒の頭上に青く煌めく一つの星を見た。七夕さまのとき、いつも上空に輝いている、やさしい光の星だった。いま地上は戦火に渦巻いている。明日の命のことも分からない。しかし星空には平和がある。私の脳裏には、幼いころ、この壕のある中庭に七夕さまを祭る2本の竹を立て、星に祈りを込めて、短冊に願い事を書いて吊るした、楽しかった日の事が思い出された。あの頃は旧暦の七夕を祭っていたので、いつも8月半ばの気候の安定した日だった。夜遅くなると涼しい夜風が吹いてきて、無数の短冊たちがさらさらと音を立ててなびいた。まるで天の川のせせらぎの音を聞くような風情だった。平和な日々が続いた、、、、そのような思い出にふけり、やさしく地上を照らす星星を無心に見詰めているとき、突然南の山の空が稲妻のように光って、まるで昼間のように明るくなった。それまでの星空のロマンは引き裂かれ一瞬にして地獄の風景と化した。それはB-29の投下した一発の照明弾であった。遠く近く、まるで花火の音を聞くような空襲が始まった。其の度に地面は揺れた。周辺でざわめきが起こった。近くに焼夷弾による火災が発生したので、退避する人たちのざわめきであった。私たち一家も南の鏡川に避難した。其のときすでに北の市街の空は、まるで強烈な秋の夕焼け空を見るように朱けに染まり燃えていた。平和だった町は一瞬にして地獄絵と化した。私たち一家は南側の岸に立って、ただ呆然と燃える我が家の方角を見詰めていた。その間に、何度も空中で爆発したナパーム弾が火の粉となって降り注いできた。まるで高知市全体が巨大なローソクの炎に包まれた感じだった。恐怖は極に達した。
 空襲が始まって二時間も立った頃であろうか、突然、その炎の中に巨大なB-29が現れて逆さまに突っ込んでいった。飛行機は、尾翼の辺から、盛んに火を噴いていた。B-29の印象的な後退翼と四発が赤い炎の幕をバックに見事な影絵となって映った。余りにも近かったので、大きな爆発音がすると思って、私は思わず防空頭巾の上から耳を両手で覆った。しかし爆発音は燃え盛る市街の轟音にかき消されて聞こえなかった。そのときだった!低空を飛ぶ戦闘機の耳劈くような爆音を聞いた。戦闘機の爆音である。咄嗟に近くの旧、三島村の海軍飛行場(現、高知竜馬空港)に学徒動員で作業に行ったとき、局地戦闘機の「雷電」が配備されているのを見ていた。「ご安心下さい、一機たりとも本土には近づけません」と言っていた飛行士の栗原大尉の笑顔を思い出していた。
 こうして高知市街は二日間燃え続いて、町の七割が灰燼に帰したのである。私たち一家は父の故郷である高知市の西の米田に疎開し、それから終戦までの一ヶ月余を過ごすことになったのである。米田は大自然に恵まれた空も空気も美しいところであって、当然夜の星空も素晴らしかったはずである。しかし、ここではまだ私の前には星は立ちはだからなかったのである。
 余談になるが、この頃本田実さんは、従軍して南方のマレー半島に居たはずである。戦渦の中の、占領下のシンガポールで彗星(グリグ・シエレルップ彗星)を発見して日本に電報を打った話は有名であるが、それから5年後、復員して帰ってこられた本田さんによって、近代日本の、彗星発見劇の幕が切って落とされることになるのである。


町内の防空演習風景(昭和19年)




Copyright (C) 2009 Tsutomu Seki. (関勉)