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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第46幕 スパイカメラと私(1)

 

 今年も二年に一度の世界的な写真関係の見本市、フォトキナ2008がドイツのケルンで開催された。世は正にデジタル全盛の時代を迎えた感があるが、そのなかで小さいながらも、ひときわ光って人目を引く珍しいカメラがあった。それはライツ社の傘下にあって、いまはひっそりとして、おとなしく身を潜めているかに見えた、ミノックス社が突然、あの超小型のスパイカメラMINOX-DSCを発表したことである。しかも8×11mm版のデジタルになっての登場である。


デジタル化したMINOX-DSC

 ミノックスカメラは戦前、バルト三国の一つ、ラトビアのリガで誕生した。戦時中は数奇な運命を辿って、戦後は西ドイツで生産された。このライターを少し長くしたような超小型の精密なカメラが戦時中スパイによって駆使され暗躍したことは想像に難くないが、戦後冷戦の時代を迎えて、やはりその活動は続き、平和になっても産業スパイなんかにも使われた。このスパイ目的で誕生したと思われるミノックスカメラが、今も人気の絶えないのは、形が愛らしく精密なことと、意外によく写るからであろう。
 天文家でも、このカメラを愛する人は多く、私の知る中でも、関西の松本達二郎氏や故、菊岡秀多氏、関東では高橋実氏等が居る。
 関東に本部がある「ミノックスクラブ」は100人を超す愛用者の同好会であり、私も会員の一人、星に「MINOX」があることは、ご存知のことと思う。
 この世界最小のカメラで、世界最大のスバル望遠鏡を撮ったことは忘れられない。今でも旅には必ずついていくのがミノックスカメラで、この小さな駒は私の歩んできた歴史でもある。


ミノックスカメラで撮ったすばる望遠鏡

 私とミニチュアカメラの出会いは古い。確か小学5年生の時だった。クラスメートに日本製の「ミゼット」を持っている人がおり、よく校庭で友人たちを写していた。その小さながま口に入った、まるでライカを縮小したような、赤い皮張りのカメラが、なんとも可愛く欲しくてたまらなかった。しかし、世は大戦勃発の前夜で、道楽を目的とした商品はまったくウィンドウから消えていたのである。
 やがて太平洋戦争が始まって、物資はますます窮乏し、毎日の生活も厳しくなった。そんなある日、300メートルほど離れた友人が手旗信号を送ってきた。当時は一般家庭には電話は稀で、ましてインターネットのようなものがあるわけではないので、いつも学校から帰ったあと、一定の時間に自宅の屋根に上がって、宿題のことやらなにやら、お互いに伝えたいことや、質問やら、白い二本の旗を巧みに振って信号をやり取りしていたのである。中学生になっていたが、手旗信号は時局柄、学校での必修科目でもあった。みんな巧みにできた。
 余談になるが、終戦目前にして、鹿児島の航空基地「チラン」から特攻機で出撃していく若い飛行士を見送った女子学生は、日ごろ憧れていた彼に、最後の言葉を伝えたかった。しかし出撃目前の戦闘機の轟々たる爆音で声が全く機内の彼(恋人であろうか)に届かなかった。そこで彼女は転機一番、素手の手旗信号で最後の言葉を彼に伝えたのである。彼女の変わらぬ愛を確かめた飛行士は、勇躍して南方の戦場に飛んでいったのである。なんと美しくも哀れな物語であるが、手旗信号は時代によっては思わぬところで貢献したのである。
 さて再び本題に帰って、そんなある日彼の送ってきた信号は、宿題のことではなく、珍しく別の目的であった。白い二本の旗の描く文字は「ヤミイチニグッチーアリ」という簡単な”暗号”であった。”グッチー”とはなんだかタレントの名前のようだが、実はこちらでも同じ名の豆カメラが存在し、ミゼットと共に、人気豆カメラの双璧をなしていたのである。近くの闇市で売っていたカメラは、到底子供の小遣いで買えるような代物では無かったが、大変な無理を言って、寛大な母を口説き落とし、ついに憧れの「グッチー」を手に入れる事ができたのである。
 そう言えば、私が始めて星に憧れたとき、簡単なレンズの組み立てキットを買ったのも母の優しさであった。無論それが、その後の本格的な観測や発見の導火線になったのである。常に私の味方であった母への感謝は今も忘れていない。
 さて、こうして苦心して手に入れたミニチュアカメラであったが、時は、あたかも激烈な戦時下を迎かえ、思わぬ大事件が待ち受けていようとは、全く知る由もなかったのである。
 (続く)




Copyright (C) 2008 Tsutomu Seki. (関勉)