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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第45幕 奇跡の発見「小島彗星」

 

 あれは確か1970年12月28日のことだった。
暮れも押し迫ったその日の夜、愛知県一色町の小島信久さんから急ぎの電話がかかってきた。何でもその日の早朝、ネウイミン第2彗星を捜索中に、そのバリエイション上に、それらしい14等級の彗星を発見した、という。ネウイミン第2彗星とは1916年、ロシアで発見された短周期彗星で、それまで長いこと行方不明になり、世の計算者は、その目に見えない光跡をを追って、毎回捜索予報を発表していたのだった。
 予報がBAAのハンドブックに発表されると、小島さんと私は、早速に2人で共同して捜索することに決めた。周期は約6年であるが、永い歳月のゆえに、その近日点への回帰の時刻は大幅に狂っているに違いない。そう考えて、彗星の予報位置の東側を小島さんが、そして西側を私が分担して捜索することに決め、その年の秋から早々と捜索合戦が展開されていたのであった。果たしてその捜索網の中に本物の彗星が存在したであろうか?
 その頃、小島さんは自分で研磨した、口径31cm F5の反射鏡を使っていた。私は高知市上町の自宅の物干し台で、これも小島さんの磨いた21cm F5の反射鏡を使用していた。フィルムはトライXの全盛だった。これをパンドールで増感するか、コダックのD-19で標準現像して、いずれも好結果を得ていた。
 彗星は永い間の放浪の生活で非重力効果を生ずることが多い。その結果、一概には言えないが、大体近日点の通過を早める方向に働くのである。従って小島さんが選んだΔTのマイナス側、つまり今回は彗星の東側を捜索するのが有望と考えたのである。
 その想定は見事に当たった!正に彗星のヴァリエイション上に光る14等の彗星像を予想どおりの明るさで発見した。一見して誰しもネウイミン第2彗星の再来と思ったのである。
 発見の第一報が三鷹の天文台に届くと、これも現役バリバリで捜索の任に当たっていた「天体掃策部」の冨田弘一郎氏は、「これは問題なく、ネウイミン彗星でしょう」と私に言った。冨田氏も実はこの彗星を密かに堂平山の91cmで捜索していたのである。また神奈川県湯河原町の神田茂氏は、極く概略の軌道要素を見ただけで「詳しい計算をやるまでもなく、これはネウイミン2彗星だ」と第1回の彗星会議の席上で言われて、氏の発行する速報に”ネウイミン・小島彗星”と書いて発表されたほどであった。当時小島さんの写真から位置を測定したのは私で、更に私の自宅での観測も加えて最初の暫定軌道を計算したのも私だった。神田氏は、その概略の軌道要素を見て、そのような処置をとられたのであった。
 これに対して長谷川一郎氏やマースデン氏はやや慎重であった。当時の「山本速報」には「果たして同一のものかどうかは、今後の軌道研究を待つべき」としている。
 しかし、この両者は実に軌道要素が似てる。近日点通過日のTや近日点距離のqはやや違っているものの、他の角度要素はかなりの程度に一致しているのだ。この彗星は過去に木星に異常接近している。その結果、もしや今の摂動計算では追いついていけないような力が働いたのではないか?と、愚問をたたき付けてみたら、スミソニアンのマースデン博士も同じようなことを考えていたのか、OAAの長谷川氏を通じて「木星の質量を変えて計算してみたが、結果は一致しなかった」との返答が返ってきた。
 かくして小島彗星は残り、今日まで健在である。しかし肝心のネウイミン第2彗星は、杳として姿を見せないまま暗い宇宙の中に、消えて行ったのである。

 しかしあれから30年以上も経った今、私はここである事件を報告しておかなくてはならない。と言うのはネウイミン第2彗星が回帰するはずの1976年には、BelyaevによってBAA(大英天文協会)で詳しい捜索予報が発表され、その最大の光度は13等に達していた。その頃、私の観測所は上町から芸西村に移転していた。望遠鏡も今までより2倍も大きい口径40cm、F5の反射鏡を使うようになっていた。これも小島さんの好意によって組み立てられたものであった。
 事件というのは1976年の3月中旬、ネウイミン彗星のヴァリエイション上にそれらしい光を捕らえたのである。すぐ近くにスバルが輝いていた。このことはすぐに愛知県の小島さんにも報告され、その翌日小島さんも、その付近を写真捜索して、謎の光芒をキャッチした。しかしその後は悪天と夕空の低空のため、ついに二度と観測のチャンスが到来しなかったのである。ネウイミン第2彗星はこのまま永遠の闇の中に消え去るのであろうか。
 それから7年の歳月が流れて、私と小島さんは、高知県土佐山田町にある有名な洞窟「龍河洞」の中に居た。前長1.5kmに余るこの鍾乳洞は昭和の始めに発見された、比較的歴史の新しい鍾乳洞である。昔は洞内は暗く松明をかざして探検した。石の天井には黒で塗りつぶしたかと思われるほどにこうもりがぶら下がり、未踏の底知れぬ洞穴の奥には、奇怪な獣の鳴き声がこだましていた。地底に絶えず滝の音がしている。人間が探検したのは、まるで迷路のようになっている洞穴の極く一部だと言う。危ない足場に注意しながら歩き、2人の会話は自然とネウイミン第2彗星の話題となった。
「小島さん、最初に発見したほうき星が短周期彗星であって良かったですね」
と切り出すと謙虚な小島さんは、
「有難う御座います。彗星が誕生したのも、確認して下さった皆様のおかげです」
と答えた。
「しかし”コメットコジマ”の名は今後7年ごとに帰ってくるのですから素敵ですよ。私も出来ることなら周期彗星を発見してみたいです」と私。
「それにしても冨田さんや神田さんが初期の状態で”ネウイミン第2彗星と判断したのはどうしてでしょう?」
小島さんは洞内の幽かな光にメガネを光らせながら言った。
「そうですね、それは恐らく永い間計算や観測に携わってきた人の、いわゆる大六感というものでしょう。実は私も未だ同じではないか?という疑念を捨て切れません。あれからネウイミン2の方は回帰ごとに熱心に探したのですが見つからないのです。」と答えた。
「1916年の発見当初も彗星は暗かったのですか?」と小島さん。
「いえ、それがとんでもなく明るかったのです。ネウイミンは恐らく小さなコメットシーカーで発見したと思うのですが、1916年の2月に9〜10等の明るさで発見しています。その後彗星は約3ヶ月に渉って観測され、最終の5月7日にも10〜11等で、コマは2.5分あったとのことです。この年の観測から求めた彗星の標準光度は11.0等となり、いまもしこの明るさで予報すれば、やはり眼視的な光度となるでしょう」と私。
「いつかアメリカのホイップル博士が言ったように、短い周期の彗星は100年も経てば相当に暗くなるものですね」と小島さん。
「しかし、いつ突発的に明るくなるかも知れないという可能性もありますね。1916年の発見当初はたまたま明るかったという考えも無いものでしょうか」と私が答えた。
「今は人知れず暗い宇宙をさまよっている彗星ですが、また何時の日にか明るくなって現れることに期待しましょう」小島さんは落ち着いた口調で語った。
 暗く狭い迷路を歩いていた私達の前方に、その言葉を象徴するかのように、遠くに洞窟の出口らしい仄かな明かりが見えてきた。


1977年12月下旬
高知県の龍河洞を探勝する小島信久氏




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