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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第41幕 ニューカレドニアで会った人

 

 1986年2月、近日点を通過したハレー彗星は、3月には可也の偉観を呈しながら南へのコースを辿った。そして4月の上旬にはさそり座の南部を掠めるようにして徐徐に南下して行った。このころ日本からは大変に見にくく観測は少なかったが、南に位置する芸西天文台では連日のように観測した。4月1日には、それまでの尾が姿を消し完全なコマだけの円盤体となったが、これは実際に尾が消えたのではなく、彗星が衝に近かったため、尾があちら向きに流れて、見かけ上消えたものと思われる。その後間もなく、この異変を確かめるべく南方に飛ぶこととなったのである。

 私が大阪を舞台とする”ウエルカム・ハレークラブ”の存在を知ったのは1985年頃だったと思う。市内に勤務する女性の多い同会の会長であるSさんから天文講演の依頼を受けてからこの会を知った。会長はもとより、多くの会員は天文に関しては全くの素人と言ってよかった。天文を良く知った人が会長を努めると、やることが大体似たオーソドックスのものとなってしまう。Sさんはもともと星とは縁のない存在で、今回たまたまハレー彗星ブームがまき起こったので、突然同志を募って会を発足さすこととなったのである。
 そのようなことで彼女の発想は大変ユニークで斬新であった。例えばセミナーの受付をロボットにやらせたり、天文とは凡そ縁のない講師(立花隆氏や西村京太郎氏)を呼んで講演会を開催したり、そして、いよいよハレーの接近する1985年の秋には会員たちが大挙して芸西天文台にやってきて、まずハレー彗星の予備観測を行ってから、翌年の春にはいよいよ本番として、「天国に一番近い島」と言われる南のニューカレドニアに観測隊を繰り出すこととなったのである。
 こうして我々天文家が考えもしなかったアイデアを次々と持ち込んで実行して行ったSさんには好感が持てた。当時Sさんは33歳の独身。阪急百貨店に勤め、いつもズボンを履き、流行の最先端を行くような髪型をして、見るからに生き生きとした活動派だったが、内面には非常に穏やかな優しい面があった。ニューカレドニアの花がいっぱいの道を歩いていたら、丘から降りて来た彼女に声を掛けられた。
 「関先生! お散歩ですか。今日はお天気が良いのでハレー彗星が良く見えそうですね。」
 と眼を輝かせた。彼女の背後には南太平洋の限りなく蒼い海が拡がりスマートな彼女を一層引き立てた。その一週間前には私はバリ島に来ていた。今回生まれて初めて赤道を南に跨いだのも、元はといえば彼女のお陰である。ハレー彗星のことになると、いつもオーバーラップするがごとく思い出される彼女であるが、ハレー彗星の去った今は、評論家、立花隆氏の秘書を勤めていると言う。もともと才媛を担っていたSさんのことだからきっと良い仕事をしている事と思う。
 ニューカレドニアの4月はあいにくの雨季ということであったが、いつもお天気の変遷が早く、曇っていても毎日一度は必ず星空が眺められた。このころのハレー彗星は南十字に近い南天の天の川の中にあって、扇形の少し変わった短い尾を見せていた。光度は4〜5等で、双眼鏡では楽に見えてが肉眼では見にくかった。私たちはホテルの近くの海岸や宿の裏庭で観測したが、近日点を通った直後の2〜3月に比べると光度は落ち、尾もずいぶんと短くなっていた。それでも一生に一度のハレー彗星を見るチャンスに恵まれたことに、ウエルカム・ハレークラブの会員の多くは満足していた。
 はるばるとニューカレドニアにまでやって来た目的の半分は観光だったので、私たちは首都ヌーメアの町の港から船を借りて40キロメートルほど離れた無人のアメデ島に上陸した。島の周囲はわずか1km足らずの小さな島であるが、その中心に聳える白亜の灯台の高さには驚いた。なんでもナポレオンV世が建てたとかで、当時は南半球で一番高い建造物であったと言う。船がいよいよ島の艀に着くとき、真っ先にこの巨大な灯台が島のシンボルとして眼前に迫ったのである。
今頭上にハレー彗星が輝いている。過去にもこの灯台の上に輝いたことがあるであろうか。そして南太平洋を旅する船人たちが仰いだであろうか?と思いながら上陸した。はしけの近くの砂浜の上に巨大な錨が置かれ、コンクリートで作られたプレートにこの島に初めて上陸した探検家のメモリアルが印されていた。1726・8・30とサインしてあった。貿易風が島の樹海を撫で、どこまでも高く聳える白亜の灯台が朝日に映えて見事だった。そして夜は灯台に懸かるハレー彗星の姿を想像した。

アメデ島の渚にて
1986年4月

 島では派手な衣服をまとった現地人が我々のために船でやってきて珍しい楽器を演奏して聞かせてくれた。腕に錨の刺青のある大男が人懐こく我々を眺めながら歌ってくれた。ショーの休みに独り裏側の渚に出てみた。樹海に沿ったひっそりとした美しい砂浜で、沢山の白いサンゴが落ちていた。波打ち際を歩いていると、ふと波打ち際に赤い貝殻が波に揉まれているのを発見して拾いあげた。日本で見るさくら貝であろうか。このときなぜか「かみはる」の事を思い出した。
 遠い昔、私が初めて彗星を発見したとき、便りを送ってきた東京・新宿に住む少女である。何年か便りを送り続けた彼女はある日、都会の海岸に出て一枚の貝殻を見つけ海に投げた。そして「あなたがもし桂浜の海岸を歩いていて、この赤い貝を見つけたときはきっと拾い上げて抱いてください」と書いてあった。それは若き日の私に対する敬愛の情であり、ほのぼのと胸に燃ゆる初恋の赤い炎でもあった。ああ青山神春はいま何処にあってなにを思っているだろう。幾千里はるばると離れた南の孤島にやってきて、いにしえの彼女の魂が未だに異国のこの渚に光っているような気がしてならなかった。

 ニューカレドニアには一週間滞在したが、その最後の日であった。宿からそれほど遠くないヌーメアの町の水族館にいって南の珍しい魚や貝を見学した。その帰り道のことである。のんびりと海岸通りを歩いていると、向こうから望遠鏡の三脚を担いだ青年が歩いてくる。外国で日本人を見かけることは珍しくないので、そのまますれ違おうとすると、彼は振り向き様に
 「関さんではありませんか?」
 と声を掛けてきた。
 「はい、そうですが、、、、」
 と答えると、その日本人は
 「このような場所でお目に書かれようとは全く奇遇です。私は滋賀県の外村と申すものでして、私が中学生のとき、あなたに憧れてお手紙を差し上げました」
 と言う。”とのむら”さんのことは記憶に無かったが、彼の説明するところによると、1962年に”関・ラインズ彗星”が発見されたとき、それが夕空に肉眼で見えるということで、その予報が知りたくて手紙を出した、と言う。私は心配になって、
 「そのときご返事は差し上げましたでしょうか?」
 と言うと、彼はにっこりと微笑んで
 「ええ戴きました。とても感激しました。あの時戴いたお手紙と彗星の経路図は今も私の部屋に掲げてあります」
 と答えてくれたのである。
 私も内心ホッとした。かつて私もそうであったように、先輩からの一通の返書がどれだけ人の心を打つのか。彼はそれに奮起して天文の道に励んだに違いない。そして一人で南方の島まで観測に来るほどに成長したのだ。その彼と私の初対面の場所が、よりにもよって南方の島とはどうした運命の巡り合わせであろうか。わたしたちは海の見える道路わきのベンチに座って、星を語り、発見を語り、そして人生を語りあったのである。眼前に拡がる南半球の海は、今日も私達の夢を象徴するが如く果てしなく拡がっているのであった。
 それから10年が経った。外村一さんから便りがあった。彼は私と会った昔の地を懐かしんで再びニューカレドニアを訪れた。そしてヌーメアの海岸にやって来た。そこには無論私の姿はなかった。しかしあの懐かしい白いペンキ塗りの椅子が、ふたたびなにかを語りかけるように、海に向かってひっそりと横たわっていた。南半球の海はこの日も青く澄み渡っていた....。



Copyright (C) 2007 Tsutomu Seki. (関勉)