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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第3幕 初めて見た太陽黒点

 

 幽霊屋敷の薮の中を逃げ回った私は、すでに父母とはぐれていた。そして出口近くで目の前に立ち塞がった白い館に、なぜかほっとしたものを感じ扉を押した。建物の中はやや薄暗かったが、少し開いた天窓から春の陽光が降りそそぎ、それまでの陰惨なお化け屋敷とは対照的に明るい雰囲気が感じ取れた。
 いったい何が出るだろう?と恐るおそる四方を見廻していると、突然暗がりの中から大きな笑い声が起った。
 「わっハッハッハ、坊やよく来たね。怖いかい?わたしはお化けなんかじゃない。お客さんにお星様を見せる、とってもやさしいおじさんなんじゃ。」と、物かげからヌーッと出て来た人物。これぞ芸西村の天文台に現れた”幽霊”の正体である。私はなおも恐ろし気に部屋の隅に立っていると、謎の人物は「坊や、こっちへおいで、とっても珍しい物を見せてあげるから」。といって奇妙な形をした機械を操り出した。
 「おじさん、これ何するもの?」。穏やかな男の様子に安心して私は初めて質問した。「これはね、天体望遠鏡といってお星様を見るものだよ。でも昼間は星は見えないので、お客さんにこうして太陽の黒点を観せるのじゃ」。と言って白い紙に眩しいばかりの太陽を映し始めた。

 この年(1937年)は恐らく太陽活動の盛んな年であったろう。大小10個ばかりの黒点が見事に並んでいた光景は、あの日からちょうど60年経った今も、私の脳裏に烙印の如く焼き付いている。そしてそれを操作していた好々爺(幼少の私にはそのように見えた)と言った感じの、やや小柄な人物の顔も実に鮮明に私の心のカメラに写し込まれているのである。僅か6才の幼少の私に初めて天体を見せてくれた幽霊屋敷の中の怪紳士。それはいったい何者なのか?そして何の因縁があって半世紀も経って、芸西村の天文台に亡霊となって現れなくてはならなかったのか?ここまで書けば気の早い読者にはもうお察しが付いたことと思う。この人物こそ天体望遠鏡の製作者として有名な五藤斉三氏だったのである。そして、私のこれからの説明を聞いていただくならば、まことに奇想天外なる下りも、自ずと納得していただけると信ずる。

 1962年に東京の世田谷で光学会社を設立して11年目。五藤氏は留子夫人とたった二人で、自社製の10cm屈折赤道儀を持って同博覧会に乗り込んで来たわけだが、この天文台(太陽館)に、ひょんなことで逃げ込む羽目になった6才の鼻たれ小僧が、それから数十年後に小惑星『五藤』を発見することになる。運命の奇遇とは正にこの様なことを言うのであろうか。五藤氏の後日談によると、この年(1937年)開催された博覧会に、自社製の天体望遠鏡を出品したく高知市に申し入れたが、適当なスペースが無き故を持って断わられたと言う。なおも熱心に依頼すると、それではお化け屋敷の片隅なら・・・ということになり、その敷地内に『太陽の館』という看板を出し営業?をしたのだと言う。どの位の人が、この風変わりな”天文台”を見学したのか定かではないが、4月上旬に私が訪れた日には、私以外一人の観客も居なかった様に思う。南国博の終了後、寛大な五藤氏は高知市に同赤道儀の寄付を申し入れたが、折角の善意も虚しく断わられた。昭和の初めのことでもあり、一般の天文への関心が低かったと言えばそれまでだが、五藤氏はそれにも懲りず、出身地の安芸市や、小・中学校にプラネタリウムや天文台を贈った。商売上手と言われた五藤氏だが、文化のため学術のため必要だと思うことは、多大の犠牲を持ってでも全うした。その五藤氏の最後の故郷への貢献が、氏の出身地に近い芸西村に建設された60cm反射赤道儀であった。
 しかし、この願っても無い話を高知県は一蹴した。(いったい天文学が県のため何の役に立つのか?!)高知県の当時の指導的立場にあった役人達の頭は、半世紀昔の南国博の頃から全く変わっていなかった。高知県は昔から政治やスポーツ、それにギャンブルには力を入れるが、こと科学に関しては実に理解に乏しいのである。かつて陸の孤島と言われた文化不毛の地は、橋が出来、道路がよくなっても余り変わらないと見える。こんな頭の古い県に60cm反射鏡を寄付し、そしてドームを造らしたのだから、五藤氏の熱意と執念には頭の下がる思いがした。こうして高知県に天体望遠鏡を贈った五藤氏の真意は、第一に高知県の少ない科学施設への貢献であった。これは開所以来献身的な数名のスタッフたちによって立派に守られている。今では五藤氏の名を知る人こそ少なくなったが、年間数十回の公開の日には、沢山の人が足を運んで天体観測を楽しんでいるのである。そして天文台の第2の目的は、新天体を発見して学術的に貢献することである。

 五藤氏は、これまでに数多くの望遠鏡やその他の施設を寄付してきた。しかしその現状を見ると残念ながら、それらが十分に活用されているとは言えない。中には野ざらしにされたり、唯の物置き同然になっているものさえある。芸西の天文台は断じてそうなってはならない。まして同社最大級の天体望遠鏡として、多大の犠牲を惜しまなかった施設である。どうか末永く立派な使い手によって活用してほしい。この五藤氏の切なる願いが亡霊となって現れたのだ、と私は解釈する。すでに故人となられ小惑星(2621)となって宇宙を飛んでいる五藤斉三氏は、天文台公開の日には魂が星から離れ地上に降りてくる。そして賑やかな公開風景を見て安心し、再び天上に帰るのである。ちょうどドイツの作家、シュトルムの『白馬の騎士』に似た発想だが、私は今でも独りで天体観測をやっているとき、ドームの周りを徘徊する足音を聞くことがある。私はこうして五藤氏の魂に守られて観測を続けているのである。

(追記)
 この連載は、東亜天文学会の機関紙『天界』に”ホウキ星と50年”と題して1998年6月から連載しているものです。

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