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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第32幕 終戦の年の星(1)

 

 1945年8月15日(太平洋戦争終結の日)の深夜、一隻の潜水艦が高知県の須崎港に浮上した。潜水艦から降りた一人の将校は、靴音も高らかに寝静まった港町を”震洋隊作戦本部”のある元町に向かった。
 第二次世界大戦終結という歴史的なこの日、国民は半信半疑のまま動揺の長い一日を終えようとしている時、一体何が起ころうとしているのか?第128震洋隊本部から翌8月16日、高知県住吉の海岸にある震洋隊基地にあて発信された電報は実に奇怪なものであった。
「ワガ敵南海上ニアリ、第128震洋隊直チニ出撃セヨ」と。
震洋隊とは一体何者なのか? それを一口で説明するなら、それは「人間魚雷」による特攻隊のことである。そしてその基地は今の”芸西天文台”近くの住吉海岸に秘密裡に置かれていたのである。
 私は高知市上町の自宅から芸西村の天文台に向かうとき、室戸岬方面への国道55号線を40分ほど走ったところで”てい山”の短いトンネルを抜ける。そうするとそれまでの小さな町や山のせせこましい風景が一転して右手に壮大な海の見える景色が展開し、解放的な気分に浸るのである。そしてこのあたりから左手の遠い山並みの一角に天文台のドームが光って見え始め、国道の上に「震洋隊殉国慰霊碑」の看板に気づく筈である。
 私がこの震洋隊のことを初めて知ったのは、もうかれこれ20年も昔になるが、高知新聞に「宇宙の放浪者」と題する長い連載をやっていたとき、突然一人の老人の訪問をうけた。その80歳位の人は南国市の「西島園芸団地」で農作業をやっているということであったが、驚いたことに元「震洋隊」の特攻隊員であったという。老人は度々興奮して咳き込みながら、当時の驚くべき真相について語ってくれたのである。
 「あの事件のあった日はヤケに夕焼けの綺麗な日じゃあった。上官の竹中大尉が突然我々を招集して『たった今本部から命令がくだった。全員ただちに出撃の準備をせよ』と言ったんじゃ。それがなんと隊員たちには終戦のことは全く知らされていなかったのじゃ。私ら160人の隊員はとうとう来るべきものがやって来た、と言う悲壮な気持ちで倉庫から爆薬を運びだして水雷艇に積み込む作業をやっていたのじゃ。」
 老人はここで長い咳をしてまた始めた。
 「・・・・一旦乗り込めば絶対に生きて帰ることのない水雷艇じゃ。赤い夕日が作業する隊員たちの顔を染め余計に悲壮な情景だったよ。」
 「あの爆発は事故だったと言うことですが」と私が質問すると、老人は、
 「そう、爆薬取り扱い中の不慮の事故となっているが真実は全く分からんでのう。160人の隊員で生き残ったのは渚から後方にいた50人じや。わっしは二度目の爆薬を運ぶため、船から100メートルほど離れた倉庫のある松林に帰ったとき、突然爆発が起き、猛烈な風に吹き飛ばされ気を失ってしまったのじゃ。暫くして気が付いた時には海岸は一大修羅場となり22隻あったはずの特攻艇は跡形もなく消えとったんじゃ。海には沢山の死体が浮かび渚も空も真っ赤か、飛ばされた死体が松の木にまでかかってぶら下がっている有様。それはこの世のものとも思えないおぞましい景色だった、、、」
 「それにしても一体誰がこのような惨事を起こす原因となった電報を打ったのですか?」と質問した。
 「それが今もって全く分からないのじゃ。一説によると中央から血気の盛んな青年将校がやってきて出撃命令を下したという説があってのう、わしらもそれが正しいと思うが、他にスパイ説もあって混沌としとるのじゃ」
 「スパイですって!?」私はおもわず叫んでしまった。なぜなら実は私の家は戦時中、軍需工場だった。私がまだ幼いころ体験した工場のなかでのあの戦慄すべき事件のことを思い出していたからである。
 それから数日後、私は事件のあった住吉の海岸をたずねた。海岸には犠牲となった隊員たちの立派な供養塔が建てられ、裏側に100人余りの犠牲者の名が刻まれていた。そして当時の水雷艇の珍しい写真が貼られていた。二人乗りの小さい船であるが説明によると爆薬のほかに20ミリ機関砲も備えていたという。事故のあった海岸を歩いてみると折からの夕日が海を朱けに染め沖からの波がとうとうと渚を洗った。50年前のあの日の海は荒れていたのか、ないでいたのか。夕日はただ赤く、渦巻くような潮騒の音は今も英霊たちの無念の叫びの如く聞こえてならなかった。やがて海への思いを後にして歩いていると砂地の松林の中に妙なものを発見した。それはダークグリーンに塗られた、昔の兵器のようなものであった。大破して長い風雨にさらされ殆ど原型を留めていないが、それは昔軍隊が使っていたゴムの車輪の三個ついた大八車のようであった。恐らくこれは爆発事故のあったあと終戦になってそのままここに放置されていたものであろう。私を訪ねた元隊員が爆弾を積んで運んだというのはこれではなかったろうか? じっと眺めていると半世紀も昔のできごとが、ふと昨日の事のように思われてならなかった。海の方からまた波の音がわたつみの声となって迫ってくるのであった。


[人間魚雷艇の写真]
人間魚雷艇
戦時中、極秘の写真として保存されていたものを元霊洋隊の兵士が提供した。



Copyright (C) 2005 Tsutomu Seki. (関勉)