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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第29幕 プラネタリュウムと潜水艦 2

 

 その頃、私は古い製紙工場跡地の廃墟の中に小さな観測所を設けて独り天体観測に親しむようになっていた。人口20万ほどの高知市のど真ん中であるが、夜空は今の芸西よりも暗かった。口径10cmの自作コメットシーカー1台と1冊の「村上星図」あるのみであった。
 コペンハーゲンから発行されるIAUCは船便で大変遅く、国際天文電報は東京天文台経由で田上天文台や倉敷天文台にきていた。特に急ぐものは本田氏が転電して知らせて下さったが、山本一清氏が独りで編集発行していた「田上天文速報」が大変役にたった。
 その後コメットハンターの必須の助手と言える星図はノルトンから更にベクバル星図へと移って行ったが、当時非売品として配られたベクバル星図(後のスカルナテ・プレソ)はベクバル台長自らの手書き星図だったのである。何十年も使ってボロボロになった製図を今眺めるとき、如何にトレースの作業が大変だったかを伺い知るのである。チェコ・スロバキアのスカルナテ・プレソ天文台では1947年ごろから台長自らが、彗星の眼視捜索にあたり、ほかムルコス、パジュサコバ、クレサク、ボサロバ氏らによって、多大の成果を挙げたのである。彗星の発見はメシエの昔からアマがやるものという習慣のようなものが根ざしていたが、スカルナテ・プレソの活躍はまさに歴史を動かす事件であった。それは日本のコメットハンターにとっても、今のリニア計画をはるかに上回る脅威であり重大なできごとであった。彼らが捜索に使用したコメットシーカーはソメト製の口径10cm25x視野4度という軽快にして強力な双眼式コメットシーカーであった。日本の本田さんの望遠鏡が15cmの反射式から12cmの双眼鏡に変わったのも1950年からで、多分にこの影響があったものと思われる。
 さて、このあたりでもう一度本題であるS氏の話にもどろう。1950年ごろOAAの高知支部長をやっていた彼が、当時日本で2代目と言われたプラネタリウムを造ったことは彼の人生での最大のできごとであったと思われる。実はS氏は大変な発明マニアであり、日常生活の上で数々の発明をやってのけ人々をアッと言わせたのである。当然プラネにも数々のアイデアが生かされ、彼の執念は当時困難とされていた星の瞬きを実現させたのである。どちらかというと物好きな彼は時としては猟奇に走り、高知市の北山に張り込んで"狐火”の正体を突き止めようとしたり、あるいは絶滅が噂されるカワウソをもとめて須崎市の新荘川を遡ったり、はてはネス湖の怪獣探検の計画を立てたり、挙句の果てはとんでもない発想のもとに或る冒険をやってのける事になるのだが、このS氏が事業に失敗したからと言って残りの人生を平凡におとなしく暮らしているとは到底思えなかった。いずれどこかで必ず旗を揚げるに違いないと言う確信のようなものをもっていた。しかし何ごともなく、30年の歳月がアッという間に流れた。そして人々の脳裏から最早”発明王”の存在は完全に忘却されたかと思われたのである。
 今のプラネタリウムは発展しすぎて本来の使命を失いつつあるような気がしてならない。確かにハイテクを縦横無尽に駆使して宇宙というものをあらゆる角度から実にうまく表現するのだが、すべてが機械まかせで解説者がいない。見る人はかってに映画でも見ている感じでなんとなくものたりない。そして肝心の惑星が投影されない。夏の夕空、南天で一番明るい星と解説されたアンターレスが、木星が入ってきたために、実際に星空を見た人は明るい木星をアンターレスと思って観察するだろう。そして突発の重大な天体現象が解説されない。すべてがオートで録音に頼り、それが何ヶ月も繰り替えされるのだから、テープは現実に逆らって勝手に回っているのである。”星を知らない人でも運営できる”と言う便利さが裏目に出たわけだ。勿論いまのすべてのプラネタリウムがそうと言うわけではない。関西の永い歴史を誇るプラネタリュムはベテランの解説者とハイテクが見事に組み合わされて見る人に感動与える見事な上映をやっていた。しかし私が10年ほど前に見た超大級のプラネには失望した。観客はもっと身近に生きた星空を感じたい。そのために観客と解説者の交流があった昔のプラネタリュウムに郷愁を感ずるのである。時あたかもあの、シューメーカー・レビー9彗星が木星に突入して大きな話題になり、しかも11月のしし座大流星群を目前に控えた時なのに、この両現象のことが一言も解説されないとは言語同断。それだけに手作り的でも、親切な解説者の居た、昔の天象儀を懐かしむのである。
 私は見学会の帰りのバスのなかでも、今日見学したプラネタリウムに多くの不満が語られている事を耳にした。私は参加した多くの子供たちに昔のプラネタリウムとはどんなものであったかを語った。そして大昔それを自作した話をして、喜んでもらったのである。
 高知県に戦後早々と天文の火を灯して、子供たちの天文教育に情熱を捧げたSさんは忘れられぬ存在であるが、彼は不運な事件と共に本当に消え去ったのだろうか?
 あれから実に38年の歳月が流れて、プラネタリウムを自作した頃の1948年、遠日点にあったハレー彗星がその軌道をぐるーと半周して、ついに近日点にやってきたのである。そのハレー彗星が当時の思い出を運んで来たのである。すなわち、ハレー彗星の回帰を目前に控えた1984年、私は地元の「高知新聞」に”宇宙の放浪者”と題して連載をやっていた。月1回の読み物は3年間続いた。その読者の1人と思われる人からある日の深夜、奇妙な電話が掛かったのである。
 「モシモシ関君かい?君の新聞連載面白く読ませてもらっているよ。なかなかやるじゃないか。毎回のストーリーが楽しみだよ。ところで僕の声に聞き覚えは無いかい? ほーら君と一緒に星を見たり、プラネタリウムの解説をやったりしたじゃないか。円天井に初めて星が写ったときのあの感動は今も忘れていないよ。僕はあれから事情があってね、鹿児島に移り住んでいるが、今度久し振りに帰郷する事になったと言うわけさ。はっはっは....君ともぜひ会って昔話をしたい。そして君にぜひとも見せたいものがある。明日の朝10時に、高知港の岸壁に来てくれたまえ。、10時だよ。では楽しみにしてるよ。ふっふっふっふっ....。」
 薄気味悪い声だった。私をあのように慣れなれしく呼ぶとは一体だれだろう。まさかS氏が....。ともかく翌朝の10時、高知港に行ってみることにした。



Copyright (C) 2004 Tsutomu Seki. (関勉)