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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第28幕 プラネタリュウムと潜水艦

 

 フランク・チャンピオンが手製の飛行機で大空に挑戦したのなら、ここには潜水艦を自作して海洋を探検した驚くべき男がいた。
 私がOAA(東亜天文学会)に入会したのは1950年の春であるが、実際には、その少し前の1948年秋、OAAとの出逢いがあった。
 それは仲秋の名月の夜であった。その頃の娯楽と言えば、映画館に行くか、家でラジオを聞くかしかなかった。敗戦後3年を経ていたとは言え、街には多くの廃墟が残り、食料も住宅も極度に欠乏した正に暗黒の時代だった。
 その頃のNHKの連続ラジオドラマに「夜光虫」と言うのがあった。はじまるテーマ音楽の中の語りに、「夜空の星たちよ、どうかその灯りを消さないでください、、、、、」と切実な願いを込めたナレーションがあったが、その言葉が当時の暗黒時代を象徴しているように思われた。私の家も1945年7月の大空襲により家も工場(製紙工場)も失い、言語に絶するようなどん底の生活が続いていたのである。
 繁華街に出ても暗かった。中心街には至る所に廃墟が残り、まるで砂漠のような荒れた風景のなかを電車が走っていた。別に目的もない彷徨だった。陰惨な家のなかの空気を嫌って、足は何時の間にか外に向かっていた。希望もない人生で、これからを如何に生きるかを迷っている18歳だった。
 バラック建ての映画館の前に来た時、前のだだっ広い焼け跡に数人の人影を見た。それは何と満月の夜の天体観測会であった。その頃としては珍しい口径15cmクラスの屈折望遠鏡2台を立てて、映画館からの帰りのお客さんに仲秋の名月を見せていたのである。
 この不思議な人物は一体何者なのか? その時もらった名刺には「東亜天文学会高知支部 S.S 」と書かれていたのである。こうしたOAA高知支部によるデモ観測会は県下の小、中学校を中心に出張して多く行われていたのである。
 この頃村上忠敬氏らの指導によって発足したOAA高知支部の事務所は高知市帯屋町にあった、高知県文教教会内に置かれていた。いまの芸西天文台の事務所もこれとは無関係に文教教会の中に置かれている。全く偶然とはいえ、なにか奇遇を感じざるをない。
 戦後早々と結成された高知支部は3人の復員兵が主軸であった。支部長のS氏は元連合艦隊の乗組員であったが、戦艦がレイテ沖の海戦で浸水。副支部長のO氏は戦闘機の乗員で、沖縄戦での特攻隊に加わって出撃したが、途中南海の孤島に不時着して救助された。もう1人の顧問は爆撃機の乗員で、中国重慶爆撃の帰途被弾し落下傘で降下した。いずれも九死に一生を得て復員し、「どうせ死んだ体だから、そのつもりでお国のために奉公しよう」と、天文学を通して国の復興に力を注がれたのである。
 私がOAAの支部が置かれている”文教協会”を初めて尋ねたのは1949年の早春であった。高知市では翌1950年春、第2回目の南国博が計画されており、S氏はそれと歩調を合わせてプラネタリウムを中心とした”天文館”の設立を計画していたのである。この頃プラネタリウムは大阪にたった1つで日本第二の”天象館”の実現と言うのが、なんとも我々の大きなな魅力を誘ったのである。
 今でこそ打ち明けるがプラネタリウムの心臓部とも言える直径1mほどの鋳物の天球に「村上星図」を頼りに5000個近い星の穴をあけていったのは当時会員になったばかりの私である。大小6種類ドリルの針を使い分けて1等星から6等星までの恒星のピンホールをこしらえていった。6等星では芯が1mmほどとなり度々折った。その作業だけでも莫大な時間と費用を要したのである。
 さらに「天ノ川」の光芒を如何にして出すかに頭をなやました。”町の発明家”たるS氏は銀河に相当する天の部分の鋳物をくり貫いて薄いトタンを張り、それに蓄音機の針で無数の穴を空けて表現する事を提案した。このアイデアは大成功で、円天井には実物さながらの「天ノ川」が再現されたのである。
 これらの作業は場末に近いS氏自宅の工房が使われたが、約2ヶ月の作業は毎日がほとんど徹夜で帰りはいつも午前3時、4時であった。
 天文学普及のため、そして東洋2番目のプラネタリウム実現のためボランティア精神に徹したすがすがしい18歳であった。
 もっとも作業は私独りではなかった。高校の同級生で共に東亜天文学会に入会したO君がいた。私が観測屋であるのに対し、彼は星を詩的に眺め文学として捉えていた。当然神話にも興味を示し、こういった種類の天文書を読みあさっていた。彼は私の高知市から西に15kmほど離れた小さな町に住んでいたが、会えない日は三日にあげず手紙を書いた。
日出づる街の僕より日没する町の君にいたす。
”アルハンブラ”は聞こえるか?
 こんな諧謔的な手紙に対し彼からも返事がきた。
君のギターの音色は忘れられぬ。
また”アルハンブラの思い出”を聞くのを楽しみにしてるぜ。
オリオンの高く昇るころ
 プラネタリウムの作業の遅くなった日は、終電車もなく、よく私の家に泊まっていった。遅くまで星を語り、人生を論じ、そしてギターを弾いてうさを晴らした。思えばO君は若い時代の親友の一人であり、私にとって心の糧でもあった。
 さて1950年の博覧会終了と共に「天文館」も規模を縮小する事となり、O君は東京に就職することとなった。私は、これが彼との最後になるかも知れないと思って大阪まで見送って行った。大阪では当時東洋に1つと言われた四ツ橋のプラネタリウムを共に見学した。この頃解説をやって居られた高城武夫氏や戸田文雄氏と初めてお会いした。本田実氏に手紙をを書く事を勧めて下さったのは今は亡き戸田氏であった。
 大阪駅のプラットホームでO君の乗った夜行列車の赤い尾灯が闇の中を遠ざかっていく時、止めどなく涙がながれた。20歳にして初めて経験する人との決別の悲しみであった。私の不吉な予感が当たって、彼は永久に帰って来なかったのである。お互いに何も隠さず、すべてを語りあった所謂”心友”は他になっかた。
 1950年に発足しハンドメードながら日本で2台目のプラネタリウムであったが機運が今ひとつ熟せず、会館からわずか2年余にして閉館を余儀無くされた。当のS氏は膨大な借金を積み重ねて困窮しわれわれの視界から去った。”街の発明家”として多くの傑作を生み貢献し、更に大なる夢に向かって邁進していただけに、今回の失敗は余りにも哀れであり、2度と立ち直る事のない人生と思われた。

 かくて人は去り、時は流れてプラネタリウムの事は日と共に月とともに人の心から永遠に離れ去ろうとしていた。事実S氏が消えて30年の歳月が経とうとしていたのである、、、。

 しかし読者諸兄姉よ、このS氏の物語はこれで終焉を迎えたのではない。これから始まるのだ。



Copyright (C) 2004 Tsutomu Seki. (関勉)