トップページへ

連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第22幕 コメットシーカー異聞

 

 彗星を発見するための天体望遠鏡は、古今を通じて多くの人によって工夫されそのスタイルが考察された。それは長時間の観測をできるだけ楽にこなすための目的であって、メーカーの既製にはそれは存在しなかった。コメットハンターにとって、コメットシーカーを作ることは観測以外の大きな楽しみの一つでもあって、その条件は(1)視野が広く明快であること。(2)適当な短焦点であって掃天や持ち運びが楽なこと、等が挙げられる。形式は絶対に経緯台が使いやすいが、未知の天体の位置(赤経、赤緯)を知るためには赤道儀が有利であることは当然である。これら互いに相反する条件をともに具備すると思われる立派なコメットシーカーが実は昔、東京天文台に存在したのであった。これは一つのミステリーでもある。

 先にメーカー製でコメットシーカーは存在しないと言ったが、ただ一つの例外は、ツアイス製の口径20cm(トリプレット)F6.7のコメットシーカーである。これは今の国立天文台に形をとどめていないので最早知る人は少ないと思われるが、短焦点の屈折式の鏡筒は適当な高さの椅子とドッキングし、少しでも高度を変えながら赤経に沿って掃天するようになっていた。接眼部があまり動かないので捜索は楽である。彗星の捜索中にモーローとした彗星状天体を発見したとき、有効最低倍率では小さな星団やら完全な雲霧状天体やらわからず、しばらく判断に苦しむことがある。今流行の大型双眼望遠鏡は良く見えるが、悲しいかなそれができないのである。
 ツアイス製のコメットシーカーは最低27倍から100倍以上まで自由に倍率の変換ができるようになっていた。経緯台式のコメットシーカーの一番の泣き所は発見した天体の位置がわかりにくいこと。折角彗星を発見しても薄明中の地平線上の如く、背後の星座が良く見えていないときなんか焦燥は極みに達することがある。こんなとき、もしコメットシーカーが赤道儀であったらどんなに有利かもしれないと思う。ところがこのツアイスのコメットシーカーは赤道儀になっていたのである!この夢の如きテレスコープはいったい誰が設計したものか。そしてどのような動機で東京天文台が仕入れたものであろうか?これは永遠の謎である。
 1961年の秋頃だったと思う。OAAの元会長の百済教猷氏が大阪での例会でホウキ星の捜索について講演されたことがある。先生は碩学であられながら彗星の捜索もやったことがある(1919年12月、テンペル第2彗星発見)異色の学者であったが、お話の中で一日東京天文台のコメットシーカーに触れ、「天文台がどのような動機で購入したかわからないが、恐らく60cm屈折を買ったときおまけに付いていたものであろう」と話されていたことを思い起こす。
 このテレスコープを使って、国立天文台の下保茂技官が1936年7月、下保・コジク・リス彗星(1936V)を発見されたことは有名で、冨田弘一郎氏によると、当時夕空で変光星を観測中に偶然にも明るい(6〜7等級)同彗星を発見した由である。当時は日本天文学会で表彰式の制度が無く、学会から手紙で表彰された(下保茂氏談)そうである。18〜19世紀はアメリカやヨーロッパで彗星の発見が盛んであった。そんな状況を見ながら天下のツアイスが設計製作したものであろう。コメットシーカーとしては恐らく傑作の一つであろうと思う。当時東京以外でこれが彗星の発見に貢献したのだろうか?私はそれについてまったく知識をもたぬ。ツアイス製コメットシーカーのその後であるが、1960年代に堂平観測所を見学したとき、人工衛星のベーカーナンシュミットカメラのファインダーとして同架されているのを見た。天文台ではこれで彗星を探す人がいないので、他の目的に流用されていたわけである。いったいどんな星像なのか?一度覗いてみたかったがついに目的は達せられなかった。(星像は余り良くない....)という言葉をチラと聞いたような気がするが定かではない。

 山崎正光氏のコメットシーカーは、1928年にクロムメリン彗星を発見したことで有名だったが、この接眼部を上下動の支点に取った奇妙なスタイルは、もともとアメリカにそのモデルが存在した。1953年頃、高知県佐川町のお宅にお邪魔して実際に覗かせてもらったが、アイピースは古いラムスデン式の30°ほどの視角(実視野は1°)で、これで彗星を発見するのは奇跡ではないかと思うほど視野は狭小であった。

 10年ほど昔北で彗星会議があったとき、地元に彗星捜索に大層熱心な方がおり、自分の設備について発表されたことがある。小さなドームの中で暖房があり、そして口径15cmの近代的な双眼式コメットシーカーにパソコンを応用し、経緯台ながら赤経、赤緯はデジタルで表示し、しかも見ている天空の彗星と紛らわしい星団、星雲がパソコンの画面に表示されるようになっていた。正に至れり尽せりの近代的な装備であったが、成果は必ずしもそれに比例しないから皮肉である。メシエやポンの昔から、絶大な成果をあげたのは小さく軽便なコメットシーカーと、一枚の使い慣れた星図。そして野外の寒空あるのみであった。

 さて本田実氏が15cmコメットシーカーで本格的に彗星の捜索を行われたのは、1940〜1950年頃までの10年間、広島県瀬戸村の山間であった(昔黄道光観測所があった)。初めの頃、口径10cmほどの坂本鏡を使用され、のち口径15cm、F6.3の木辺鏡に代わった。マウントは恐らく手製であったと思う。形式はごく普通の反射式経緯台で、ケルナー40mmアイピースを使用し23×視野1.5°を得ていた。木辺氏の会心作らしく、イメージは非常に良好であった。星像がシャープであるということは彗星を探す人にとっては非常に大切なことで、本田氏はこの反射式コメットシーカーで1947年と48年に2個の彗星を発見された(他の1948Wは肉眼発見)。恐らく当時として多くの人々が、コメットシーカーのスタンダードとも言うべき本田氏の15cm、F6.3のコメットシーカーに憧れたに違いない。当時本田氏からの書簡によると、国内で捜索をやっている人として、東京の角田喜久男氏、京都の原田参太郎氏と松井宗一氏。山口県の浅野英之助氏と香川県の川人武正氏を挙げて居られた。この他にも伏兵として花山天文台の三谷哲康氏が天文台の業務の余暇に口径12cm(F5)15×の屈折式コメットシーカーで夜明け前の30分を費やして彗星を探されていた。視野は3°と明るく広かったが、微光星が見にくいとご本人が嘆いておられた。これらの方々は本田実氏と親交をもたれていたと思う。私もその中の一人で、本田氏のコメットシーカーに非常な興味を持っていた。しかし一度も本田氏のコメットシーカー(15cm鏡)を見る機会に恵まれなかった。しかし弟子たる私の願望が通じたのか、ある日『もし貴方が希望するのでしたら、私のと寸分違わない鏡を木辺氏にお願いしてあげましょう』との嬉しいお便りに接することができたのである。
 余談になるが、1961年10月、私が1961f彗星の発見に成功したとき、私のコメットシーカー(口径88mm、F7)と全く同じものを特注された人が数人いた。福島県の羽根田利夫氏、水俣市の西川登氏らが発見に成功した。『発見者と同じコメットシーカーを!』というのは、コメットハンターなら誰しも考える一種の縁起であるかもしれない。勿論、本田氏の15cm鏡には多くの人が憧れた。そして、それと寸分違わぬものが、私のところにも在るのである。これは1953年頃の話で、少なくともその頃まで広島県のご自宅に鏡は健在だったものと信じる。
 15cm、F6.3鏡で見る星空はすばらしかった。高知市の空が暗かったせいもあって、星団・星雲の一つ一つが、大口径鏡による天体写真のように迫力があった。本田氏が同じように眺め、そして快哉を叫んだであろう数々の天体を、そして銀河を私も眺め、幽遠なる星の界に酔いしびれていたのである。
 私の15cm鏡は、その頃発見される新彗星の早期観測に活躍し、そして1956年10月には28年ぶりに還ってきたクロムメリン彗星を独立発見に成功した。
 本田氏は、そうした私の成果に益々援助の手をさしのべて下さるようになり、当時非売品だった手書きのベクバル星図(スカルナテ・プレソ1950)をコピーして送ってくださった。この頃の手紙に水路部の監物邦男氏の名が出てきて懐かしい。
 本田実氏は1950年の夏頃、発見に活躍された瀬戸村を離れて倉敷市に移られた。そして1953年に待望久しき6つ目の星”ムルコス・本田彗星”を発見(口径10cm双眼鏡)された。私が始めて倉敷天文台を訪れたのは、その翌年の1954年9月であった。この時、天文台の13cm屈折赤道儀や古くからの31cmカルヴァー鏡は健在であったが、どういうものか15cmのコメットシーカーは見当たらなかった。普通だったら倉敷天文台で捜索の仕事に従事してしかるべきものだが、その代わりにと言ってはおかしいが、口径10cmほどの小さな双眼望遠鏡が直径1米余りの銀色のドームの中に収まり、モーターで床が回転するようになっていた。たしかにコーワ製の観測用で、京都のN製作所の主人が見つけてきたと言われていた。『良く見えますか』との私の質問に対して、本田氏は『ピントは非常に悪いですね。長時間見ているとめまいがして吐き気を催します。だから余り暗いものは狙わず、8等星以上の明るい彗星を見つけるよう勤めているのです』と言われていた。あれほどコメットシーカーのピントを気にし、『発見するためには絶対にピントが尖鋭でなくてはならない』と、それを必須の条件として文献にも書き残されている本田氏が、どうしてピントの甘い双眼鏡にこだわられるのだろう?或いは2つの目玉という便利さを優先されたのか?とふと疑問を感じたが、もしかするとこの頃すでに本田氏の許にはあの15cm鏡は残っていなかったのではないかと思う。その後の本田氏の一連の彗星発見に15cm鏡は一度も登場することは無かったのである。本田氏の15cm名鏡は消えた。そして偶然にも同じ15cm(F6.3)鏡が私の許に生まれ変わった如く残ったのである。本田氏の魂の通っていると思われる私の15cm鏡は、その後数々の彗星の観測に利用し、1967年に至って”第2池谷・関彗星”(1968T)を発見。そしてその直後赤道儀にマウントされた。このホウキ星が15cm鏡で撮影した最初の星となったのである。ちょうどその頃、SAO星表が発売されたのを機に、手製のコンパレータを使って彗星や小惑星の精密位置観測を始めた。私のその後の天体観測の先鞭をつけた記念すべきテレスコープとなったのである。
 しかし、それにしても本田氏の15cm鏡はどこへ消えたのであろうか?それについての余談はまだ続くのである。

 次回は”雨の日の訪問者”について語らなくてはなりますまい。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)