トップページへ

連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第18幕 岡本先生と星の本

 

 1954年ごろ、和歌山県金屋町の小槇孝二郎氏から頂いたお便りの中に、こんなものがあった。
 『過日、大阪のある古本屋で見つけたシューリッヒの星図に、この様なメモが記入されていました。"Telescopic Nebulous Object not found in this Book!"これは一体何の発見を意味したものでしょうか?』
実は1928年に星図に記入された"星雲状天体"とは、ある重大な発見を記録したもので、この暗号めいた文字を頼りに、私は天文学上のふしぎな事件に巻き込まれて行くことになる。いずれこのストーリーが進んでいくにしたがって星図の謎の文字の意味が判明する時がやってくる。しかし今私が語りたいのは、同じ本でも、小学時代に岡本先生からいただき、そして数奇な運命を辿った一冊の本のことである。
 1973年11月3日、高知市の空には湖のような青空が広がっていた。11月3日、文化の日。遠く明治大帝の生まれた日は、いつの年でも秋たけなわの好天に恵まれるのである。その午後私は高知城下なる土佐女子中学・高等学校のバザーに出かけた。何も買わなくとも、生徒達の作った品物を見るのが楽しみだった。(実はこの頃同校ギター音楽部の講師をしていた)校内を一巡して外に出ると、城下の秋景色が美しいので自然とお城の方に足を運んだ。その途中で山内一豊公の馬に乗った銅像のある県立図書館の庭を通ったのだが、そこで一寸めずらしい光景を見た。同館で古書の即売会が行われているのである。毎年1回の催しとして市内の古本屋が一同に会して本をどっと繰り出す。館内におさまらなかった反古同然の安い値段のついた古書が、庭まで溢れて砂利の上で日光を浴びている。私はしばしば足を止めて乱雑に並べられた本の題字を見て行った。案外掘り出し物が発見されることがある。いつぞや山本一清先生から"土佐偉人伝"という本を頼まれて発見したのも、こうした場であった。この頃は今だったら絶対に手に入らないであろう昔の星の本が時々発見されたものである。神田茂著『彗星』、中村要著『天体写真術』、そして山本一清著『星座の親しみ』、という風に往年の名著が案外と簡単に入手できたものである。たった一冊であったが星の本を見つけた。それは昭和15年発行の松隈健彦氏の『天文学新話』であった。大部分が変色し、水にでも浸ったようなしみのある汚い本であったが、ページをめくっている中、私はハッとした。何だか見覚えのあるページであり文章であった。そしてページをめくっていくなか、ぞーっとする様な懐かしさが溢れ出したのである。(もしや・・・岡本先生からいただいた本では)と思ったが確証はなかった。

 思い出は再び1940年(昭和15年)の小学時代に飛ぶのである。それは晩秋の頃であった。父の郷里である高知市近郊の米田(ヨネダ)という村で神祭があり、私たち親子は招かれて遊びに行った。その帰りの夜道での出来ごとである。
 父の実家から南の電車通りの電停まで僅か1キロ半の道のりであった。とにかく田舎で淋しいところであった。その名も恐ろしい"赤鬼山"の麓の小川の道を30分かかって歩く。左手はだだっ広い田畑で青白い誘蛾灯が、所々まるで暗闇に閉じ込められたように、しょんぼりと光っているだけの暗闇である。やがてギィギィという水車の音が暗闇の中から伝わってくると町の電停も近い。しかし最後に深い神社の大木の林を抜けなくてはならない。とにかく怖いので、父のマントの中にかくれるようにして歩いていると、突然父が声を発した。「ツトム、ほら三つ星だよ」と。父の指差す赤鬼山の上を見ると、山の稜線でさえ判然としない暗黒の空に、まるで埃のような星。それらは大きい星は近く、そして小さいものは遠く立体感を持って私たちに迫るのであった。父の教える方角に、なるほど3つ星が行儀良くきちんと整列している。あれから半世紀以上経った今も、あの時のオリオンの凄まじさは私の眼底に焼き付いているのである。この時はじめて見た流れ星のことも忘れられない。この赤鬼山の下の小川の道は、夏になると良く火玉が出没するということを聞いていたので、その後ろくに空も見ずに歩いてしまった。
 人魂はよく流星と間違われるが、米田で見る人魂というのは、誠に鬼気迫るものがあった。余談になって恐縮であるが、あるじめじめとする7月の晩、2人の人物が20米ほどの間隔をとって町まで出かけた。その途中、火玉君のお出ましとなったが、御丁寧にも火の玉は、前を歩いている男性と後ろを歩いていた女性の中間で、道路からふわーっと浮き上がったのである。「ひゃーっ」と余りの恐ろしさに女性はその場に倒れて失神した。そんなことは知らぬ男性は、すたすたと何事も無かった如く町まで歩いたという(これは私の疎開中の昭和20年7月の出来ごと)。私の祖父もそれに似た体験があり、話してくれた。「あれはのう、もうかれこれ50年になろうかのう。わっしは子供の時、お使いで近所の八百屋まで歩いて行っとったんじゃ。そろそろ明かりがともり始める時間ぢゃったが、歩いているわしの頭を何かが掠って通ったように思うた。すると青いスイカくらいの火の玉が、ふわりふわりと飛んでいって向こうの松の木にかかりパチンと消えたんぢゃ。あれが本物の人魂というもんじゃと思うよ。わっはっはっ」。この様な妖怪めいた話は人魂とか狐火とかいって、私が子供のころよく大人達から聞かされたものだ。昔は土葬が多かったので人魂が沢山出現したとの説もある。
 以前星ケ窪というところで天体観測会があって車で出かけた。伊野のインターに入るための広いバイパスを走っている時、"中ノ谷橋"と書いた橋上にさしかかってハッとした。"中ノ谷"とは父の田舎で米田村の中ノ谷のことである。橋を渡りながら左前方を見ると、火玉の出没で有名だった赤鬼山が見えている。夏は蛍の大群が住み、清冽で冷たい泉の湧き出た里。火玉や妖怪の出没した山深い村も巨大な1本のバイパスの貫通によって大変な変貌を遂げてしまったのである。もう怪談なんか無い。
 さて、その中ノ谷橋の下の赤鬼山の麓で、父にオリオン星座を教えてもらっていた頃、ちょうど"カニンガム彗星"が見えていたはずである。大平洋戦争の始まった1940年の11月〜12月、夕方の西空にかなりの偉観を呈した。土佐市の池幸一氏は、実に50年以上のキャリアを持つ超ベテランのコメットハンターであるが、当時カニンガム彗星は11月の夕空、わし座付近に見え、3〜4等星で5〜7°の尾を引いていたという。以来57年、今も彼は彗星発見の夢を持ち続けているのである。
 第4小学校の校庭には、東と西に高い銀杏の木があり、その中間にせんだんの木があった。昭和15年頃の空は実に美しく澄んで青いというより、むしろ黒っぽい蒼さだった。ある日の放課後岡本先生をつかまえて、米田で星を見た話をした。岡本先生も星は好きで、師範学校の時代に3インチの天体望遠鏡を梶ケ森(標高1400m)にかつぎあげて、同僚に星を見せた話をして下さった。そして「関は星が好きか?」と聞かれた。その数日後に1册の本を持って来て「関君これは先生が持っているたった1冊の星の本だ。暇に読んでみなさい」、と言って渡して下さった。それから間もなく岡本先生は出征して大陸に渡る運命となったのである。
 しかし人の運命とは実に不可解なものである。小学4年生にして絶好の星との出逢いがあった筈である。しかし、ああ何と言うことか、私は一向にその折角の本を勉強しようとせず永いこと本棚に眠り続けさせたのである。そして中学生となった昭和20年7月4日、運命の高知市大空襲によって家は焼失、大火からのがれて鏡川を逃げる途中、近くに落ちた焼夷弾の爆風に飛ばされた手荷物は全部失った。岡本先生から戴いた大切な本も、まるで先生の非運を暗示するが如く、川の藻くずと消えたのである。いま、私の本棚にある古い星の本は、いったい誰人が持っていたものであろうか?岡本先生か、それとも全く関係のない人だったのか?頁をめくるたびに遠い日の思い出がオーバーラップして浮かぶのである。
 岡本先生は、ついに私たちの学園に帰らなかった。しかし先生の教育の精神は、いま1つの星、小惑星(6244)となって夜空に永遠に輝きつづけているのである。
 (岡本先生の話はもうこれで終わってしまうのか?もしそうだとしたら人生には余りにも淋しく悲しいことが多い。でも決してそうでないことを信じながら筆を進めていこう。)



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)