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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第17幕 岡本先生と星の話

 

 第四小学校で岡本先生には3年、4年と教えを受けた。5年の時は橋本先生、6年は川添先生と1年毎に替わったが、5年生の12月に太平洋戦争が勃発しているので、それまでの楽しく平和だった校風はがらりと一転し、軍国主義に添った教育が行われる様になった。何か事があると私たちは旧式の広い講堂に集まって、上田校長の訓話を聞いた。そして学校では度々戦争映画が上映されるようになった。講堂には大きな竜馬の肖像画がかかっていた。
 学童たちの遊びも、それまでの拳玉やお手玉縄跳びと言ったのんびりとした遊びから軍国調に変わり、模型飛行機やグライダーを作って飛ばすことが多くなった。男子の生徒の工作時間は、ほとんどそれだった様に思う。何回か高知市の柳原一帯で模型飛行機の大会が催され、私も出場したことがある。人気機種だった飛行機の”Aワン”にグライダーの”ベビーアルバセストロス”の名は今でも記憶している。街の中で飛ばした飛行機が高い人家の屋根に引っかかり、軽業を演じて取りに行ったことなど懐かしい思い出である。
 話し好きだったアマ講談師の祖父(母の父)は土佐市の出身だったが凧揚げの名人で、仕事(製紙業)の暇に、よく四畳半から六畳もある大凧を作って柳原に揚げに行った。日曜日には凧通の人が大勢集まって凧を揚げ、鏡川の上空には大凧に小凧の見事な乱舞となった。凧の字や絵も”八紘一宇”だとか”必勝”だとかの軍国主義を象徴するものが多くなり、それらの字凧に絵凧は恰(あたか)も国民の戦意を鼓舞するが如く、大空高く舞い上がって行くのであった。
 ここ高知市の筆山の北側を流れる鏡川の上空は悪気流の名所で、空高く揚がり勇ましく風にそよいでいた大凧が、突然尻の方から垂直に落下することがあった。畳八畳に匹敵する凧が鏡川に墜ち、凧の染料で川の水を朱色に染めたことがあった。1917年(大正6年)、日本に木製の複葉飛行機で飛来し、高知県の人々に初めて飛行機なるものを見せてくれたアメリカの飛行士、フランク・チャムピオンはこの柳原の上空で数々の曲芸飛行を実演中、悪気流に煽られて翼が折れて墜落した。いま彼は美しい鏡川を見降す丘の上に眠っている。好きな飛行機を操って異郷の地に果てた不幸なチャムピオン。きっと彼は今も空を飛びたいと思う。いつの日にか彼の魂は星となって宇宙を飛ぶ日がやってくるのではないかと思う。彼のために新しい小惑星を見つけようと思う。
 さて当時の小学校ではスポーツも盛んであった。岡本先生は機械体操が得意で、数々の美しい演技を見せてくれた。水泳はプールが無かったので近くの鏡川に泳ぎに行った。その頃の川は恐ろしいばかりに深く、流れも急で水はすくって飲めるほどに清冽(せいれつ)だった。5〜6年になると角力が正課として取り入れられ盛んであった。小学1年〜2年生の頃は病弱だった私であるが、6年生の時には西の横綱を務めるほどに成長した。チャンとした番付も張り出され、千秋楽の日、東横綱”片岡山”と西の横綱”関ノ川”(私)の名勝負は、今でも同窓会がある度の語り草となっている。
 当時の学校も私の家も中心街に近かったが、今で言う光害というものはほとんど無く、夜になると暗黒の空に凄まじいばかりの星だった。当時の5〜6年の教科書には、天体のことは全く出てこなかったので、授業としての星のお話を聞くことは皆無であった。しかし、とりわけ理科の得意だった岡本先生から、時々こぼれ話としての星のことが語られた。
 山に出かけるときは万全の準備をして、決して無理をしてはなりません。ある時、先生はそれを怠ってしまったのです。(どうせ雨が降るだろう)と思って水筒を持たずに石鎚山に登ったのです。そして1度入ると出られないと言われている樹海の中に迷い込んでしまったのです。1日中必死で歩き回り、喉がカラカラに渇き今にも死ぬ思いでした。その時、偶然にも水を含んだ苔を発見し、思わずしゃぶりつきました。磁石を持っていなかったのですが、夜になると星が出ます。北極星の位置はほとんど変わらないのですから、先生は星の位置から方角を定め2日ぶりに密林の中から脱出することができたのです。
 岡本先生は学問や芸術(字や絵)に秀でているばかりでなく、登山やスポーツも得意としていた。そんなところが多くの学童の人望を集め、慕われる所以ではなかったかと思う。
 岡本先生が学園を去るとき1冊の天文書を戴いた。本の題名は忘れたが、たしか小・中学生向きにかかれた天文学の啓蒙書であったように思う。小学4年生にして星との出逢いがあったはずである。しかし人の運命とは実に不思議なるものである。中国の戦線に旅立った岡本先生の形見とも言えるこの本を、ああ、私は一向に紐解こうとせず、1945年7月の高知市大空襲で失うと言う悲運に逢ってしまったのである。そして天文学への道は全く別の方向からやって来ることになる。

 次回は数奇な運命をたどった、この1冊の天文書をめぐる物語である。
 



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