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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第16幕 大陸に消えた恩師

 

 その日の最後の授業は音楽だった。昼間でも薄暗い唱歌室の片隅に置かれたピアノの前に座った岡本先生は、教科書の音楽が終わるとメガネを白く光らせながら「今日は私の一番好きな歌を教えてあげましょう。先生は独りで淋しい時には、きまってこの歌を歌っています」と前おきしてピアノで伴奏を弾き始めた。そして、
海は荒海 向うは佐渡よ
すずめ鳴けなけ もう日が暮れた
みんな呼べよべ お星様出たぞ
と、調子のよい音声で歌って聞かしてくれたのである。
 有名な北原白秋の詩に、山田耕筰がメロディーをつけたものだが、初めて聞く白秋の詩と哀愁のメロディーにひどく心を打たれた。この詩には、中山晋平が作曲した如何にも子供の歌らしい2拍子の曲もあるが、私は静かで詩情の溢れるような4拍子のこの曲の方が好きである。多少まわり道になるが、大正年代に新潟県の師範学校に講演に出かけた白秋は、砂丘の連なる日本海の海岸を観光し感激、詩を作ることを約束して帰ったという。その数年後に発表されたのが有名なこの"砂山"だった(現地には碑が建っている)。
小学校4年生の音楽の教科書に、どの様な曲が並べ教えられていたか、私はすっかり忘れてしまった。しかし岡本先生が感情を込めて歌い教えて下さったこの曲のことは、ふしぎと鮮明に私の脳裏に残り続けたのである。
 第四小学校での楽しかった思い出は多いが、中でも最も印象に残っているのは、岡本先生と山や海への遠足に出かけることであった。遠足や修学旅行の出かけるときには、先生方は先ず第1に、生徒たちも道中無事に旅させて家に返すことに1番気を遣うであろう。遠足にしても県外への旅行にしても、子供達にとっては大切な社会学の勉強の場である。そして初めて体験したことは、恐らく一生忘れられない貴重な出来事となろう。引率する先生にとっても重要な教育の場である。今でこそ思うが、岡本先生は最も小学校の先生としてふさわしい、偉れた人格を具備されていたと思う。大学の成績(試験の点数)が優秀であって先生になった人が、必ずしも子供を教える先生として適切とは言えないと思う。私は小学校3〜4年生の永い間、岡本先生の教えを受けたのは大きな幸せであった。
 高知市の北のはずれにある鴻ノ森に登山したとき、子供達にとって標高300米の急斜面はきつかったが、岡本先生は山中で見つけた沢山の昆虫たちを、手に取って説明して下さった。また秋の日、小さい巡航船に乗って浦戸湾を航海し名勝の地、桂浜に遠足したことなんか、まるでお伽の国へでも行ったかのように楽しかった。浦戸湾の清冽な水に浮きつ沈みつする巨大なクラゲの奇観。湾の真ん中に浮かぶ小さな島"巣山"に群がるからすの大群。船が"みませ"に着き、少し歩いて砂丘を越えると忽ち前方に大海原の絶景が展開する。それは幾重にも織り物を敷いたかのように、沖に行くほどブルーから濃い藍色へと変化する海原の素晴らしさ!それは生まれて初めて見る海景であり、渚に躍動する壮絶な波の光景であった。
 そして科学に詳しい岡本先生のお話。今私が回想しても一番楽しかったのが、この小学時代だったのである。理科の時間には必ず野外で学んだことを復習することを忘れなかったし、また先生が独自に深い山(四国中央山地)に入って、数々の冒険を犯しながら、昆虫や植物の新発見に努めたお話なんか、私たちにとって楽しさの域をはるかに飛び越した驚異の世界であった。こうして私は益々岡本先生が好きになったし、あれほど苦手だった勉強がいつのまにか面白く、また自信を持つことが出来るようになったのである。「関くん、最近変わってきたね」と、メガネの底に象の様な優しい目を輝かせていた岡本先生の笑顔が今でも心の中を去来する。
 しかし人生には悲しみや不幸はつきものである。私たちの小学生活は常に戦争という暗い影がつきまとっていた。その運命の日がやってきたのは4年生の3学期のことだった。いつもとはうって変わって真剣な眼差しをたたえた岡本先生は、突然私たちのお別れの挨拶をされた。「日本は今戦っています。先生も出征して中国に行くことになりました。私の任務は戦うことでありません。日本占領下の上海で、日本人の家族を教えることです。お国のためにも立派な教育をやりたいと思います。中国の子供たちとも、きっと仲良くなる時がやってくると思います。先生が元気に帰ってくるまで、みんなも元気で勉強して下さい。」
 その日は早春の晴れた日だった。岡本先生は多くの学童や父兄たちに見送られながら、一人で校庭をスタスタと歩いて去って行った。(再びお目にかかれる日があるだろうか?)と私の小さな胸を不安の影が走り、悲しみに胸がつまった。小学4年生にして初めて味わう人との訣別の哀愁であった。みんな悲しんだ。ある者は机に顔を伏せ歔欷した。そしてある人は校庭に素足で飛び下り先生の後を追った。先生の後ろ姿が校門から消えると土に跪き慟哭した。
 こうして多くの人々に惜しまれながら戦火の中国大陸に渡った岡本先生は、2度と私たちの学童の前に姿を現すことはなかったのである。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)