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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第14幕 追憶のカニンガム彗星

 

 前号では海野十三の”火星兵団”について多くの頁を使ったが、これは私の少年時代において科学に興味を持つ1つの出会いとなった小説であったからである。もし海野の空想した”モーロー彗星”が出現していなかったら1961年の”セキ彗星”も出ていなかったかもしれない、と思うからである。こう考えると幼少期の出逢いとは誠に大切なもので、その出来事が、その人の一生を支配することにもなりかねない。新しい天体を発見することも、或いはそれに関連した書物を発行することも、これからの若い人たちに良い刺激を与え、貢献することになるかもしれないとひとり思ったりする。
 海野十三の”火星兵団”が少国民新聞に連載されていたころ、私は第四小学校の3〜4年生であった。大戦前とはいえ、学園は平和な、のどかな時代で、学童たちはあちこちにたむろして”火星兵団”の明日を読むうわさで持ちきり。校庭では枯れた拳玉の音がこだまし、紙飛行機が舞った。

 私たちの担任は岡本啓先生といって、まだ若い眼鏡をかけた小柄な先生だった。岡本先生は体育や書道、絵画に偉れ、私たち学童が憧れるに十分な条件を備えていた。中でも昆虫や植物に詳しく、理科の授業の中で、よく深い山(四国山脈)の中に入って大自然を相手に研究し、時には冒険を犯してまで新種の発見に努めた話をしてくれた。生まれつき学問の苦手な私だったが、岡本先生の理科の時間には、そこには我を忘れ、いつの間にか先生のお話に陶酔している自分自身の姿を発見するのであった。正直に言って教科書のことは忘れてしまったが、そうした岡本先生のお話は不思議なほど克明に憶えている。またそうした余談とも思えるお話が実際に社会に出て役立ったことが多いのである。小学校で教科書を正しく教えることも大切だが、その先生の得意とする学問を、そして体験を情熱をを持って語ることこそ、学童にとって大切なことではないか、と思う。
 岡本先生に出逢う前の私の幼少期は惨憺たるものであった。病魔にたたられた小学1〜2年を犠牲にした。3年生になって、もし岡本先生に出逢うことがなかったら、どんなに落ちこぼれていただろうか、と我ながら宸襟寒からしめるものを感ずるのである。岡本先生のお話は新鮮だった。そしてすべてが驚異だった。未知なる大自然の中に私たちを誘い込み、科学することの楽しさ、すばらしさを身を持って教えてくれたのである。それまでいたずらに先生に叱られ、学業を休みがちだった私が、3年生になって急に学校が面白くなったものだから、父母も大層先生に感謝し、母なんか度々岡本先生のお宅を訪ねて感謝していた。それから40年も経って、突然先生が訪ねて来て、暗闇の玄関で「ごめん下さい!」とやや尻上がりの調子で声をかけたとき、母はすぐ岡本先生だとわかったという。小学校の先生というものは、学童にとっても、父兄にとっても忘れられぬ存在なのだ。

 さて、このころ肉眼的な大彗星が現れた。その名は”カニンガム彗星”である。実は比較的最近まで”火星兵団”の中に登場するホウキ星を”カニンガム彗星”とばかり考えていた。それは恐らく小説の発表されたころ同誌に”カニンガム彗星”の名が頻繁に登場し肉眼で見られることが度々話題になったからであろうと思う。
 カニンガム彗星は、当時アメリカのロイッシュナー天文台で活躍していたカニンガム氏が、1940年9月19日に発見したもので、当時の夕空にかなりの偉観をを呈したようである。私には同彗星を見た明確な記憶はない。しかしそれは夢か幻か暮れなずむ市外の西空に、蜃気楼のごとくぼんやりと棚引いていたホウキ星の姿が、私の脳裏を去来する。カニンガム氏は、このほか周期彗星の検出や、新彗星の軌道計算にも多くの成果を挙げた。私がカニンガム彗星と出逢ってから21年後の1961年10月、初めて発見した関彗星(1961f)の最初の軌道を計算し、880年の周期を得たのもカニンガム氏であった。この頃の彗星界の第一線には、まだ大マースデンの名は登場していなかったのである。
 Comet Seki(1961f)については、私の発見した最初の星でもあり、少ない観測資料から軌道の計算を試みて、その位置予報を発表した。900年余りの周期を得たが、実際にはカニンガム氏の方が真に近かった。この彗星は長谷川一郎氏の指導下に、その決定的軌道を計算すべく公表したが、ついに実現に至らなかった。当時は多くの観測のO-Cを計算するのに、いちいち7桁の対数表や三角表を引いて計算していくという大変な作業で、その上、9つの惑星の摂動を入れて軌道を決定するということになれば、恐らく数年を要したであろう。そんな中で電子計算機の応用が急速に発展し始め、もはや手計算なんか昔の夢物語的な存在となってしまったのである。
 しかし昔の人は対数計算にしても手廻しの真数計算にしても本当によくがんばった。5〜6年の周期彗星の計算にしても、木星と土星の摂動を加算するだけの略式に頼ったが、それでも近似的に再発見に貢献した。中でも忘れられないのが時々爆発的に増光して現れたり、或いは忍者のごとく姿をくらますことで有名な”ペライン彗星”である。1955年の回帰のとき、従来の軌道を基に長谷川氏が略式の摂動計算を行って早々と予報を発表した。その位置予報の一部を私も手伝ったが、1955年の10月に突然発見されたムルコス彗星が、永い間不明中のペライン彗星であり、従来の予報より約6等級も明るく出現したのである。このムルコス彗星をペライン彗星と同定されたのは長谷川氏であり、氏の軌道研究の大きな成果の1つであった。
 当時のスカルナテ・プレソ天文台は1947年頃から、ベクバル台長自らコメットシーカーを握り、ほか数名の台員が彗星探しに努め多くの成果を挙げた。約10年奮闘し、ムルコスだけでも10個の新彗星を発見した。彼は1個の彗星を発見するのに平均300余時間かかっているとの説がある。プロの天文台が、これだけ眼視的捜索に力を入れたのは、恐らく空前絶後のことであろう。アメリカのリンカーン天文台は口径1米クラスのシュミットカメラ+CCDという近代的な設備で、いま多大の成果を挙げているのは周知のとおりである。しかしこれは小惑星の捜索が主目的なのだ。
 スカルナテ・プレソ天文台の掃天には、新鋭の広角双眼望遠鏡が数台使用されたとのことであったが、当時としては鉄のカーテン内の出来事でその詳細は判明しなかった。私もコメットハンターの一人で、特に高性能のコメットシーカーに興味があったので、同天文台のパジュサコバ女史に英文の手紙で問い合わせたが、返信に接することができなかった。しかし後(1959年ころ)現れたイギリスのオルコックが、ムルコスと同じメソト製の双眼機を使用していることがわかり、また1998年の夏、チェコでIAUの会合があったとき、長谷川一郎氏が同天文台を訪れて、例のコメットシーカーを覗く機会を得た。メソト製の双眼機は対空用のもので、口径は10cm25×。実視野は恐らく4度は確保していると思う。コメットシーカーの性能もさることながら、彼らのたくさんの成果を支えたものは、海抜1600米という同天文台のすばらしい星空によるものが大きいのではないだろうか。長谷川氏の訪ねた日の夜は曇天で星は見えなかったという。
 ここで再び先ほどのペライン彗星の話に戻るが、1955年10月にムルコスの発見したころ、私は長谷川氏の予報に従って、その前日(10月18日)発見位置のかに座付近を捜索していた。器械は口径15cm、24×の反射式コメットシーカーである。当時、人口20万の町の空は実に暗かった。星は良く見えた。しかしああ悲しいかな、ペライン彗星(9等)の潜んでいた星域を、私のレンズはなんのためらいもなくスーッと通り抜けてしまったのである。これについて神田茂氏は、私の捜索直後において突発的に増光したものであろう、との判断を下された。当時ペライン彗星の予報光度は14〜15等であったと記憶する。
 こうした突発的な増光のくせのある彗星は、当初考えもしなかった非重力効果(彗星の1種のロケット効果)によって、計算をややこしいものにしているのである。1992年9月25日、芸西で20等で検出したショーマス彗星は、強力なCCDカメラを持つキットピークのスコッチの的が外れたのも、実は非重力効果によって奇妙な運動をしていたからで、これはそれを専門に研究していた岡村健治氏の手柄でもあった。しかしその差は微妙なものであった。それでも長い歳月の中には、そのくるいは馬鹿にできなくなる。今から100年も昔発見された星で行方がわからなくなっているのは、軌道が怪しい上に、この非重力が働くためである。昔アメリカのバーナードや、イギリスのデニングが発見した短周期彗星で、行方のまったくわからない星がいくつか存在するが、1公転ごとに光も失っているし、もし再発見されるならば、それは奇跡に等しいであろう。

 さて、次はもう1度楽しかった小学校の校庭に帰ろう。このストーリーを続けるにあたって、どうしても語っておかなくてはならない事件があるのだ。
  



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)